齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

頭の中の歯車――シュティルナーの思想

人間よ、君の頭のなかにはおばけが出る。

君の頭は狂っている!

 

ドイツの哲学者、マックス・シュティルナーは言いました。

  

彼の主張は、150年たった今の日本にも十分に当てはまります。

 

人びとはありもしないものを信じており、しかもその信仰が日々強化されている。社会は狂っており、その狂気は拡大しています。

 

シュティルナーの主張を「唯一者とその所有The Ego and Its Own」から見ていきましょう。

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マックス・シュティルナーの似顔絵(1806年10月25日 - 1856年6月26日)

頭の中の歯車

以下は「唯一者とその所有」の「頭の狂ひWheels in the Head」項から引用。訳は岩波文庫の草間平作訳1928年のものを使用しているが、現代語に直しています。英訳は全文公開されており、必要に応じて英語を併記しています。 

 

 

 

人間は固着観念に囚われている

人間の頭のなかには固着したイデアが存在するとシュティルナーは指摘します。

人間よ、君の頭のなかにはおばけが出るMan, your head is haunted;

君の頭は狂っている!you have wheels in your head!

 

君は偉大なものを空想する、神々の全世界を描き出す、君を召しよせる精神の世界 君をさしまねく理想を頭に描く。君はある固着の観念(fixed idea [fixe Idee])をもつ!

 

頭のなかの「wheels歯車」 とは、本来は存在しない虚妄、「現実化された非現実」を示しています。

「崇高なもの」に執着する狂気

シュティルナーの云いはシンプルです。

崇高なものに固執するのは狂気だ」。

僕が、崇高なものに固執している人達を、そして非常に多数の人びとがこれに属するゆえほとんど全世界の人びとを、真実の痴人、癲狂院の痴人fools in madhouseと認めたからとて、僕が冗談を言ったり比喩的に話しているのだととってはいけない。 

ほとんどの人は「崇高なもの」、つまり固着観念を信じて生きています。

いったい固着観念とは何を言うのか? 人間を臣従せしめるところの観念である。もし諸君がかような固定観念を愚昧だと認めるならば、諸君はこの観念の奴隷を精神病院に監禁するだろう。

固着観念によって人間は隷従することになる。これは必然です。「崇高なもの」とはすなわち「自分以上のもの」ですから。

 

ひとはその実在しないイデアの前にひれ伏し、隷従し、自分の無能さや不完全さを嘆くようになるのです。

 

それから、疑ってはならない信仰上の真理、冒してはならない・例えば・国民の皇帝(これを侵す者は――大逆犯だ)、道徳を純血に保つために検閲官はそれに反するものを一語たりとも通過せしめてはならぬ徳など、それらは皆「固着観念」ではないか?

「疑うことが許されないもの」

「批判されることが許されないもの」

 

シュティルナーはこれらはすべて「固着観念」であるとします。 その例として王や文書の検閲をして守られる道徳をあげています。

 

世界中に広がる「気狂い病院」

例えば現代の多くの新聞紙のあらゆる愚劣な饒舌は、道徳、合法性、キリスト信仰などの固着観念病に罹っている愚物どものお喋舌で、ただ彼らのうろついている癲狂院がたいへん広いために自由に歩きまわっているというようには見えないだろうか?

個人的にゲラゲラ笑ったのがこの文。

 

狂人が大手をふるって歩けるのはどうしてか?

それはこの狂った世界=マッドハウスが、あまりにも広大だからです。たしかに地球上のほとんどがマッドハウス化してますから。

 

正常な世界はむしろ檻の中――刑務所や精神病院の中にあるのかもしれません。

狂人は襲いかかる! 身を守れ!

固着したイデアが少しでも批判されることがあれば、狂人たちが襲いかかるとシュティルナーは言います。

もし人がそのような愚物の固着観念にふれるならば、彼はすぐさま狂人の奸計に対して背後を警戒しなければならなくなるだろう。

 

なんとならば、彼らの固着観念に手を触れる人を騙し討ちにする点では、これらの偉大な巨人たちも小弱ないわゆる狂人と同じだからである。

 

彼らはまず最初に彼の手から武器を盗む。彼から言論の自由を奪って、それから彼らの爪でもって彼に襲いかかる。今でも毎日これらの狂人の卑怯と復讐欲とが暴露される、そして愚鈍な民衆は彼らの馬鹿げた処置を喝采する。

 

王様は裸だ、と言うこと―― ひとびとが崇拝するイデアのタブーに触れること。懐疑的にものごとを考える人やありのままのことを自然に発言する人は、言論の自由を奪われ、いじめられ、パワハラされ、攻撃や暴力を受けます。

 

たとえば天皇の戦争責任を発言した市長は銃撃されて意識不明の重体(長崎市長銃撃事件)。

狂人は新聞を愛する

狂人でも自分に不信を抱くことがあります。そういうときは、仲間が同じように狂っていることを見て安心します。

痴人と一緒にひとつの家に閉じ込められているという恐ろしい確信を得るために、人は現代の新聞紙を読み、俗物どもの話すのを聞かねばならぬ。 

私たちはSNSやテレビを通じて、周りが自分と同じような狂人だらけであることを確認して安堵する。「ああ、みんな私と同じなんだ」。

 

狂人はそうして現実や自己から逃げます。

シュティルナー「わが同胞は大馬鹿者だ」

「バカをバカと言ってはいけない」。シュティルナーはそういった規範を乗り越えます。

「汝は汝の兄弟を愚人と呼ぶべからず、もし然らずんば云々。」

しかし僕は呪詛を恐れない、そしてわが同胞は大馬鹿者だ、と云う。

 

癲狂院のかわいそうな痴人が、自分は父なる神だとか、支那の皇帝だとか、聖霊だとかいう狂想に取り憑かれているにせよ、あるいは安楽な市民が、よきキリスト教徒であり・敬虔な新教徒であり・忠良な市民であり・有得な人間であることが彼の運命だと自惚れているにせよ――それは両方とも同一の「固着観念」である。 

草間訳で「支那の皇帝」となっている部分は、原文では「日本の皇帝」となっています。我らが天ちゃんですね。 

 

日和ったか岩波文庫という感じですが、1928年という時代ですから、「天皇は気狂い病院の哀れな痴愚poor fool of the insane asylumだ」なんてとても書けません。的確な表現なだけに残念です。 

 

まあこれを読む日本人のほとんどは天皇制を想起するから問題ないのかも。

「ふつうの人」も狂っている

シュティルナーは、自分は偉い、崇高な存在だと思っている人だけが狂人なのだとは言っていない。

 

「自分は社会秩序を守る善良な市民だ」

「社会に貢献する立派な社会人だ」

とか思っている人も狂人ということです。まあおよそ社会におけるほとんどの人が狂人ということです。

かつてよきキリスト教徒になるまい、敬虔な新教徒になるまい、有徳な人間になるまいと試みなかった・またかつてしなかった人は、信仰や道徳心などに捉えられ、虜にされているのである。

ピンとこないかもしれませんが、日本教に置き換えると理解しやすいです。つまり、「よき日本人になるまい」と試みていない限り、「日本教」のドグマの奴隷です。

 

日本教は学校教育を支配していますから、これを試みた人はかなり少数だと私は考えます。

「崇高な対象」は批判されることはない

著述家が国家という固着観念そのものを不問に附して、国家に関して全冊を満たすように、現代の新聞紙が、人間は政治的動物となるために作られたのだという妄想に魅入られているために、政治記事でふくれあがっているように、服従者は服従のうちに、徳ある人は徳のうちに、自由主義者は「人道」のうちに、かつて一度もこの彼らの固着観念に鋭利な批判のメスを入れることなしに、うかうかと日を送っている。

固着観念はそれ自体が問われることはありません。

 

神学者は宗教の存在を問わず、科学者は技術の意義を問わない。医学者は医療の、教育学者は学校の、政治学者は国家の存在を問うことはしません。それは不可触のイデアだからです。

 

同様に、社畜は資本主義を、ワンオペ育児の母親は家父長制を、鬱病患者は精神医学を、毒親に育てられた子は家族イデオロギーを、社会弱者は国家を問いません。彼らはそれぞれの権威に服従しているからです。

 

実にそれこそが固着観念なのです。 

それは、狂人の妄想のように、牢乎(ろうこ)として動かしがたい土豪の上に立っている。あえてそれを疑う者は――神聖なものを冒すのだ! 真に「固着観念」こそ、それこそ真に神聖なものである!

そんなわけで現代は「神聖な固着観念」のもとにひとびとが隷従している社会です。 

終わりに 「自己」の外に崇高なものはない

現代人は狂っています。

 

これは薄々感じていたことですが、シュティルナーにズバッと言ってもらうと納得です。

 

ほとんどの人びとは、自分の内なる声に耳を傾けずに、自分の外にある権威を崇め奉って生きています。しかも、その権威は実際には存在しません。

 

これは狂気です。

 

 

……そう、「崇高なる存在」は実在しないのです。

そんなはずはない、世界のどこかには「自分を捧げるべき偉大な存在」があるはずだ、と考えるかもしれません。

 

でも、ないのです。崇高な存在の代表例として、「神」がいます。何千年も人びとは「神の存在」を証明しようとしました。でも、不可能でした。

 

いわんや、現代の資本主義や科学主義、国家主義、あるいは家族主義や恋愛主義、仕事主義に「崇高な存在」は見つかるでしょうか?

 

もし理性があれば気づくでしょう。

存在しません。

 

自己を捧ぐべき存在は、ただ自己しかありません。

 

こんな当たり前のことが、自然なことがわからないから現代人は狂っているのです。

 

 

今日引用した部分は、岩波文庫版の61-63ページの内容です。3ページだけ。「唯一者とその所有」、おもしろい本です。今後も読み進めていく予定です。