齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

畜群と高級な人間――ニーチェの道徳観

今日――偉大さは可能だろうか?(善悪の彼岸)

 

ニーチェは好きですが、彼の思想でいまいち掴めないところがあります。

 

彼が人類を「高次の人間」と「畜群」とに分けたことです。

 

この不平等の思想はナチスに利用されました。

 

優秀な民族が下等な民族を支配することは善だ。

優秀なエリートが劣等な大衆を導くことは善だ。

 

ニーチェはこのような考え方に賛成するのでしょうか?

彼はなぜ不平等を支持したのか?

 

ニーチェの道徳観を見ていきます。

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今日の記事は主にNietzsche and Morality: The Higher Man and The Herdを参考に書いています。ニーチェの文章を英文から孫引きしてますが、訳がかなりひどいです。

畜群と高級な人間

私たちは道徳に支配されています。

 

道徳について批判的に考える人はほとんどいません。大部分の人々が無意識に「善悪の価値判断」に支配されています。

 

明らかに自動車の通らない道でも信号を守る――これは道徳的価値判断に支配された行動といえます。

 

ニーチェによれば、過去2000年間にわたって西洋社会に支配的だった(そして現在も支配的である)道徳は「反自然」な道徳です。「生の本能に反する」と彼は言う。

 

なぜ反自然的な道徳が西洋文明で支配的だったのでしょうか?

高次の人間とは何か

この問いは「高次の人間(高級な人間)英:higher man」と「畜群 英:herd, mob」の概念を理解するとわかりやすい。

 

高次の人間には主に二つの類型が存在します。 

創造的天才がその第一です。

 

「偉大な創造性を持つ人間、私の理解によれば本当に偉大な人間」(権力への意志)であり、類まれな特性を持ち、世界に驚くべき美しい成果をもたらす。

 

創造的天才の他に、天才の高みまで達することはない無数の高次の人間が存在します。彼らの功績はあまり日の目を見ることはなく、公衆に無視される。その生活は「歌と歌い手なしに」(曙光)存在しているとニーチェはいう。

 

しかし、創造的天才とそれに達しない高次の人間はともに畜群と違った性質を持ちます。ともに統一された人生目標をもっており、彼らの人生はその目標を実現するために消費されるのです。

 

この目標は、短期的な快楽や満足とは無縁です。高次の人間のもつ漠然とした歴史的視点によってもたらされたものです。彼らの仕事は何世紀も先まで射程を持ち、死後も影響を持ち続ける。

高次の人間は孤独である

高次の人間は孤独を求めます。

 

畜群と一緒に暮らしていれば偉大な仕事は達成できないからです。

偉大さの概念は気高くあることであり、一人ぼっちでいることを望むこと、違う存在でいることができ、自立し、独立して生きなければならないことである。(善悪の彼岸)

自立と独立――それによって高次の人間は畜群を支配している瑣末事を無視することができます。また、多くの人々からの称賛と批判に免疫をもつようになる。

 

彼らは自分の仕事の偉大さと、それに取り組む自己の偉大さによって、自分自身に畏敬の念を抱くようになります。彼の人生は「偉大な苦しみ」の中にありますが、困難のなかでも未来に確信を持つことができる。 

畜群とはなにか――末人と奴隷

高次の人間とは逆の存在として、多数の畜群が存在します。畜群は末人と奴隷というふたつのタイプにわけられる。

 

末人はありきたりで凡庸な人間です。彼らは目先の快適さや満足感のために努力し、それによって怠惰で卑しい存在となります。

 

末人はあらゆる創造的な衝動に欠けています。創造性の源となる高次の価値観について彼らは盲目なのです。

 

奴隷はというと、弱く病んだ人間です。彼らは自らの存在に悩み苦しんでおり「ルサンチマン」に満ちている。

 

ルサンチマンとは何か。立ちはだかる周囲の現実に直面し、恐怖し、圧倒され、自らの弱さや無能感を感じることによって生じる自らの人生への憎悪です。

 

こういう人にとって人生は呪うべきものであり、死後の救済などを信じるようになります。

 

末人と奴隷は人口のほとんどを占めます。「いるいる、そういう人」と思いますね。

高次の人間を引きずり落とす

ルサンチマンは高次の人間に嫉妬します。

「自分と同じように苦しんでいないから」です。

 

ルサンチマンは高次の人間に対する「復讐」に取り憑かれるようになります。

 

彼らはどのようにして高次の人間に対抗するのか? 互いに結束することによってです。「共同体的権力」それが奴隷たちの獲得できる唯一の権力です。

 

彼らは「平等」を実現するという呼びかけのもと、彼よりも高次の人間を凡庸なレベルまで引きずり落とそうとします。そこで用いられるのが奴隷道徳、あるいは畜群道徳です。

 

自己を非自己とするような道徳は、実のところ「私は劣化している」を「お前たちも劣化しなければならない」と全員に課すことである……。この道徳こそが唯一語られてきたのであり、非自己化は次の結果への意思である。根本的に、生の否定。(この人を見よ)

弱いことが「善」となる奴隷道徳

奴隷道徳や畜群道徳は自然な生の価値観を逆転させます。

 

力強く、独立的な個人――創造的な努力と「偉大な健康」によって権力を意志する人々は、奴隷道徳において「悪」とみなされます。

 

一方で、凡庸な末人と貧弱で無能な奴隷たちは、実際にはルサンチマン――つまり怒りや怨恨につきうごかされているのですが、「善」とみなされます。

最終的に――これがすべてのなかで最も恐ろしいことだが――善人の概念は弱く、病み、失敗し、自らに苦しむ、その一方を意味することになった。(この人を見よ)

 

奴隷道徳はニーチェに言わせれば「危険の中の危険」です。

 

なぜかといえば、高次の人間、つまり偉大なものを追い求めるが、その途中で不安感や孤立感、恐怖感に悩まされることになる彼を誘惑する力をもつからです。

 

高次の人間は、厄介事だらけの運命から、凡庸の快適さ、大衆との一体感のなかに逃げ込んでしまう。

 

奴隷道徳が高次の人間のすべてを引きずり込んでしまうほど強力になると、ニヒリズムが世界中を覆うことになります。高次の人間のもたらす創造性や驚くべき美、理想を追い求める力はなくなってしまい、畜群の愛する快適さ、満足が至上価値となります。

 

結果として畜群はすべての人間を飲み込み――「存在はその偉大な特質を奪われるだろう」(この人を見よ)とニーチェはいう。

畜群道徳と対抗するために――自分自身の道徳を持つ

世界がすべて凡庸な人間で満たされる。そういった未来をニーチェは危惧した。

 

それを防ぐために彼が考えたのが「価値の再評価revaluation of values」です。

 

これによって、私たちを縛り付ける畜群道徳が、実は客観的でもなければ普遍的でもない価値観であることに気づくことができます。

 

畜群道徳はまるで世界で唯一の道徳かのようにふるまいます。畜群道徳は「頑固に言う……「私は道徳それ自体なのだ、そして他に道徳は存在しない」(善悪の彼岸)」。

 

高次の人間はこの欺瞞に気づかなければいけません。「この畜群の概念は、畜群を支配するためにあるのだ――しかしその範囲を超えることはできない」(権力への意志)と。

 

高次の人間は自分の道徳を発見しなければならない。自らの統一された人生目標を実現するために、自ら自身の高次の価値観を見つけだす。

 

高次の人間は非常にユニークな存在となります。彼の道徳は彼のためだけにある。したがって、彼は自らの道徳を他者に課すことはしません。

 

では語れ、口ごもれ、「これは私の善である。これを私は愛する。私をまったく喜ばせる。私はこれを神の掟として欲しない。人間の制度や必要として欲しない。」(ツァラトゥストラ)

 

ニーチェが望んだのは、真の人間が卓越して成長することができるような肥沃な世界です。

 

高次の人間は畜群道徳の誘惑に負けてはならない。自分自身の英雄的な人生を歩み、そして未来世代の高次の人間に可能性をもたらしてほしい。

 

彼の著作はすべて高次の人間に向けて書かれているのですが、そういった願いが込められているわけです。

まとめ――ニーチェの平等観

 

 

高次の人間が奴隷道徳によって凡庸なつまらない人生を送る――そのような例は無数に存在しそうです。学生のときは生き生きとしておもしろかった奴が、就職したらどこにでもいそうな末人になっていた。ありますよね?

 

ニーチェの思想を整理してみましたが、明晰で常識的で現実に肉薄した思想です。彼が生まれて180年たった現代でも彼の思想はなおアクチュアルです。

 

ひとつ理解できることは、彼は「平等」そのものを否定したのではないということです。ニーチェが批判したのは「エセ平等」でした。

 

キリスト者、社会主義者――現代でいえば左翼ヴィーガンのような平等主義は、「強い人間を弱い自分のレベルまで引きずり落としたい」という嫉妬心や無力感などの病的な感情によって生まれたものです。

 

また、ニーチェは「強者による弱者の支配」を正当化したのでもなかった(否定もしてませんが)。彼は高次の人間に対して畜群から離れよとは言うものの、畜群を支配して導けなどとは言っていない。

 

ナチスのような思想はニーチェは支持しないでしょう。そもそもニーチェはドイツ人や軍国主義を批判し、さらに反ユダヤ主義も批判していた。

 

ニーチェが畜群を忌み嫌ったのは、彼らが病的で不自然で間違った生き方をしているのにも関わらずいびつな形で権力への意志を満足させているからです。

 

恐怖や不安に打ち勝ち、弱者が自分の弱さを認め、自らの力を正しく高めていく。そういった自然な生き方が、世界に広まることをニーチェは望んだのでしょう。

 

すなわち、より多くの人が充実した生を生きる健康な社会。

 

そう考えると、ニーチェという人物はただ当たり前のことを主張しただけにも思えてきます。