齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

セオドア・カジンスキーと道徳~後編

暴力に反対することは……プロパガンダを通じて植え付けられた、システムを利する道徳に基づいているのである。実は、これらの人々は単純に洗脳されているのだ。

テッド・カジンスキーの記事、Morality and Revolutionを読みました。

学んだところを書いていきます。

 

前編はこちら。

セオドア・カジンスキーと道徳~前編 - 齟齬

 

前編では「道徳」と「公正の六原則」の違いについて見ていきました。後編では、テッドが道徳の社会的役割についてどのように考えたのかがテーマになります。

 

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Morning near Beauvais by Jean-Baptiste-Camille Corot

 

道徳と公正 Morality and Fairness

科学的に発展した社会では、社会的メカニズムが複雑で制限されており、人間の行動が厳しく規制されているときにしか機能しない。

 

結果としてそのような社会は法律と道徳の制限的システムがずっと厳しくなる。

ちなみにテッドはこの記事において道徳と法律を区別しない、と書いています。

私たちは法律を道徳の特定の形として単純に捉える……私たちの社会では法律を破ることは道徳的悪だと広く受け止められるからである

なので今後の内容は道徳=法律として捉える必要があります。

現代は道徳が弱められたか 芸術、文学、セックス

現代は道徳的退廃によってひとびとが自堕落になっている――と考える人がいます。

 

しかし道徳の緩和は、実は限られた範囲に留まります。

昔気質の人々は現代社会では道徳が緩められたことを嘆く。そして私たちの社会のいくつかの面で比較的道徳がなくなっていることは事実である。

 

しかし、セックス、芸術、文学、装飾、宗教などの道徳の緩和は、その大部分が実質的な領域における人間行動のコントロールの厳しい締め付けに対する反応であると私は主張する。

 

芸術、文学は、もし実効的な方向に向かったらシステムにとって危険となる反逆的衝動の無害な排出をもたらす。そしてセックスや食べ物、著しく刺激的なエンターテイメントは、人々に自由を失っていることを忘れさせる。 

この記述、非常に納得いきます。

 

食やセックス、芸術などの内部でのみ自由を保証することは、支配にとって有利な「ガス抜き」になるということです。

 

日本だけでなく世界中で「グルメブーム」が起きています。それは人々に「自分は自由だ」と錯覚させるためでしょうね。

道徳は他者に対する命令であり、不公正である

実のところ、どのような言い訳を彼らが発明しようと、道徳家のほんとうの動機は他者に向かって自らの道徳を課すという彼らの心理学的必要を満たすことにあるのである。彼らの道徳への欲望は、なんら人類を多く善良にするという理性的な計画の結果ではない。

 

この攻撃的道徳は公正の六原則とはまったく関係をもたない。実質的にそれらと完全に食い違っている。彼らの道徳を他者に課そうとする試みは、強制にせよプロパガンダや訓練にせよ、道徳家は彼らに六原則の第一に違反しており、危害をもたらしている。

 

原始的な人々に性的行為の罪悪感をもたらした19世紀の宣教師や、ポリティカル・コレクトネスに反する発言をした人を抑圧する現代の左翼が想起される。

 

六原則の第一は「事前に傷つけられたり、傷つけると脅された場合でない限り、だれをも傷つけてはならない」です。

 

何ら危害を及ぼさない人物に道徳的な干渉をすることは、強制、洗脳、教育――いかなる形をとろうと他者に対する傷害であるということです。

 

道徳は六原則に反する――私有財産

道徳はしばしば他の場合でも六原則の反作用である。いくつか例を見てみよう。

 

私たちの社会の私有財産制は……特定の人や組織が他者に権力を行使するための、膨大な量の資源をコントロールするシステムである。これは公平の第一原則と第四原則に反することになる。

 

財産を尊重することを要求することで、私たちの社会の道徳は明らかに六原則に反するシステムを永続化させることを可能にしている。

第四原則は「強者は弱者に配慮しなければならない」です。

 

資本主義は強者が弱者から奪う社会ですから、六原則のまったく逆です。私有財産の保護は道徳的善だとみなされますが、それによって不公正な社会が実現します。

道徳は六原則に反する――嬰児殺し

人類の歴史上、奇形児や障害児は殺されてきました。

プリミティヴな民族の間では、奇形児は生まれると同時に殺される。(Paul Schebesta, Die Bambuti-Pygmäen vom Ituri, I.Band, Institut Royal Colonial Belge, Brus- sels, 1938, page 138などを参照せよ)

 

そして同様の行為はあきらかに20世紀なかばびアメリカに広く存在した。「奇形だったり、小さすぎたり、青ざめて息をうまくできない赤ん坊は [医師によって] 死産とみなされ、見えないところに置かれて死ぬまで放置された」と Autl Gawandeは“The Score,” The New Yorker, October 9, 2006, page 64.で述べている。

 

わあ、ひどい! 野蛮! と私たちは考えるかもしれませんが……。

 

今日ではこのような行為はショッキングであり不道徳とみなされる。しかし障害者の心理的問題を研究するメンタルヘルスの専門家は、これらの問題がしばしばどれほど深刻であるかを示唆する。

 

深刻な奇形を持つ――たとえば手や足をなしに生まれた――人々であっても、満足した生を実現する個人がいることは事実である。

 

しかしそのような重度の生涯を持つ人々の大部分は、劣悪で救いのない生を非難し、極度の奇形を持つ赤ん坊を、自らの救いのなさを自覚するまで育てることを残酷な行為だとして非難する。

 

もちろん、奇形をもつ赤ん坊が惨めな存在となるか、もし育てたら確率に反し価値ある生活を送ることになるかの可能性のバランスをとることは難しいだろう。

 

要点はしかし、現代社会の道徳規範はこのようなバランスを許さないということだ。すべての赤ん坊は自動的に育てることが要求される。

 

どれほど著しい肉体的精神的障害をもっていようと、その人生が悲惨なもの以外になる可能性がほとんどなくても。このことは現代道徳のもっとも冷酷な側面である。

 

心身の障害を持つ人が幸福な人生を送る可能性は低い。彼らは自らの生を呪い、生まれたことを後悔するだろう。であれば、彼らを育て上げることは本当に良いことかは難しい問題です。

 

しかし、現代社会では道徳によって「障害児を殺す」ことは悪だとみなされる。殺人罪、保護責任者遺棄致死、傷害致死となる。

 

有名な某コピペを思いだす記述ですが、ピーター・シンガーも出生直後の子殺しの合法化を主張していますね。

 

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黒男先生も。

 

ともあれ、テッドは障害を持つ赤子を殺せと言っているのではありません。嬰児殺が自動的に道徳的悪となることを残酷だと指摘しています。 

道徳は六原則に反する――軍隊、警察

命令に忠実に従う軍隊は、しばしば六原則に反する行為を行うことが道徳的だとされる。 

軍隊は政府からの命令に盲目的に従い、殺すことや殺すことをやめることを期待される。

 

警察官や裁判官は法律に機械的に従い、人々を投獄させ出獄させることを期待される。兵士や裁判官、警察官たちがシステムのルールへのコンフォーミティ(同調主義)ではなく、自らの公正の感覚で行動することは「非倫理的」で「無責任」とみなされる。

 

道徳的で「責任ある」判決は、もし法律がそうするよう命じればある人を投獄することである。もしその人が六原則では非難されるいわれがないとしても。 

「市民を守るんだ」と夢見て警察官になった人の数年後は、死んだ目をしたロボットであることがしばしば。

道徳とは何のためにあるか

以上見てきたように、普遍的な概念である六原則と道徳はたしかに相反する傾向があります。

 

では道徳とは何のためにあるのでしょうか。人間の幸福に寄与しない、人々を縛り付けるものであるとしたら――。

さまざまな例外は認めるが、現代社会の道徳の主要な役割は産業技術システムを促進することにある。……

  

システムの権力の座を支配する人々はセキュリティとシステムの拡大に関心を持つ。特定の道徳的考えがシステムを増強し、保全を与えるとこれらの人々が考えるとき、自己利益の観点か、あるいは自己利益の影響を受けた道徳的感情によって、彼らはメディアや教育者を通じて道徳的概念を促進させようと圧力をかける。

 

したがって財産権、秩序、従順さ、法に従うこと、協力的行動が私たちの社会の道徳的な価値観となる(これらが公正原則に反するとしても)。なぜならそれらはシステムの機能に必要だからだ。

 

システムに都合のいい国民って、「日本人の国民性」と非常に合致しますね。偶然ですよね?(「日本人論」は疑似科学である。 - 齟齬

レイシズム、性差別はなぜなくなったか?

同様に、人種間や民族間の調和と平等は私たちの社会の道徳的価値であるが、それは人種間、民族間の摩擦がシステムの機能を妨げるからである。すべての人種、民族の平等な扱いが公正原則によって要求されるとしても、だから道徳的価値観が私たちの社会にあるのではない。それは産業技術社会にとって都合の良い道徳的価値観だからである。

人種間の衝突は産業社会の「保全」と「拡大」の邪魔になるということです。

伝統的なセクシャルな道徳を緩和したのは、権力を持つ人々がその緩和がシステムの機能に必要ではなく、それを維持することで摩擦と緊張を生み、システムを傷つける恐れがあるからである。

私たちはポリティカル・コレクトネスが広がる傾向を「先進的」ですばらしいことだと考えがちです。

 

それは人間の幸福ではなく、産業技術システムに都合が良いからのようです。

産業社会が恐れる「暴力」

産業技術システムにおいて、「暴力」はもっとも危険なものとして慎重に排除される。

伝統的な性的な道徳的な締めつけを緩和したのは、権力を持つ人々がその緩和がシステムの機能に必要ではなく、それを維持することで摩擦と緊張を生み、システムを傷つける恐れがあるからである。

特に、私たちの社会において有益なのは暴力の道徳的な禁止である。(「暴力」によって私は人間に対する肉体的な攻撃や物理的な力を人間に行使することを指す)。数百年前、暴力は西洋社会では不道徳と考えられてはいなかった。実のところ、適切な条件においてはしばしば称賛された。もっとも特権的な社会階級は貴族であり、戦士カーストだった。 産業の前夜においても暴力はすべての悪の中で大きなものとみなされていなかった。他の価値観――例えば個人的な自由――は暴力を避けることよりも重要だとみなされた。アメリカでは、19世紀にそうであるように、公衆の警察に対する態度はネガティブであり、警察権力は弱められたままで非効果的だった。それは彼らが自由を脅かすと考えられたからである。人々は個人的自由を脅かすよりも、自らで自分を守ること、社会の暴力を受け入れることを選んだのである。

その次代から、暴力への態度は劇的に変わった。メディア、学校、そして私たちに関与するシステムのすべては、私たちに暴力は、もっともしてはならないことと洗脳し信じ込ませる。(もちろん、システムが自己自らのために暴力を行使するとき――警察や軍隊を通じて――つねにその行為の言い訳を見つけることができる)。

 

現代の産業社会が機能するためには、人々は厳格に、機械のように、規則に服従し、秩序とスケジュールに従い、所定の手続きを協力して行わなければならない。

 

結果として、システムはとりわけ人間の従順さと社会秩序を何よりも求める。すべての人間の行動において、暴力は社会秩序のもっとも破壊的なものであり、したがってシステムにとってもっとも危険なもののひとつである。

 

産業革命が進むと、権力階級は、暴力は彼らの利益に反することとして次第に受け止め、それに対する態度を変えた。彼らの影響力は新聞で何が印刷されるか、学校で何を教えられるかについて支配権を持つ。

 

彼らは全社会の態度を徐々に変革してゆき、そのため今日ではほとんどの中産階級の人々は、また支配に反逆する人々の大部分でさえも、暴力は究極的な罪であると信じている。

 

彼らは暴力に反対することが道徳的決定の表現であり、そしてそれはある意味、それはプロパガンダを通じて植え付けられた、システムを利する道徳に基づいているのである。実は、これらの人々は単純に洗脳されているのだ。

 

産業社会社会では、暴力は悪いことだと刷り込まれています。

 

ブラック企業の従業員はサイコパス経営者を殺すのではなく、電車で飛び込み自殺します。

 

アナーキストのなかでも非暴力主義は多く、議論の分かれるところですが、テッドは「それは洗脳だ」と切り捨てます。いや、すごい。

道徳と公正の違い

産業技術システムに対抗する革命をもたらすためには、従来の道徳を捨てることが必要であることは言うまでもない。私がこの記事で伝えようとした二つのうち一つは、従来の道徳に対するもっとも過激な拒絶においては、人間の良識を放棄する必要はないということである。そこには「自然な」(そしておそらく普遍的な感覚)の道徳――あるいは、私はこう呼ぶのが好きだが、公正の概念――は私たちを他者に対して「良心的」でいつづけさせる。すべての形態の道徳を放棄したときでもだ。

道徳がなくても公正さは生き続けます。人類に普遍的な概念だからです。  

私が訴えたいもうひとつの要点は、道徳の概念は人間の良心や私のいう「公正さ」とは何ら関係がないということだ。現代社会では特に道徳を用いることはしばしば人間の良心と完全に食い違う目的のために人間の行動を操作する道具である。

 道徳はむしろ人間を自然の良心から引き離す効果があります。

 

したがって、革命家たちが社会の現在の形態を廃絶しようと決定するならば、既存の道徳を拒絶することに躊躇する理由はない。そして彼らの道徳拒絶は良心への拒絶と同等であることはありようがない。

 

しかし、産業技術システムに対する革命が人間の良心と公正の概念を侵害することは否定できない。システムの崩壊においては、自発的にせよ革命の結果にせよ、無数の罪のない人々が苦しみ死ぬだろう。私たちの現在の状況は、巨大な悪を防ぐために不正と残酷さを実行するかという状況に私たちは置かれている。

以下、テッドは第二次世界大戦、連合国が枢軸国を多数の犠牲を払いながらも勝利したことを例にあげ、革命家たちはたとえ公正の原則に反してでも巨悪に戦うべきだと言います。

終わりに――道徳の正体

非常に長くなってしまったのですが、ここまでにします。

  

テッド・カジンスキーは、現在ではニッチな思想家です。

読んでられないよ、という人が大多数だと思います。

 

個人的にためになったところを書き抜きます。訳出していない部分も書き出しています。

  • 道徳=法は、産業技術システムに奉仕する。
  • 道徳はセックスやグルメ、芸術など産業技術システムに反しない領域では緩和し、人々に自由の錯覚をもたらす。
  • 道徳は人類のためにあるのではなく、他者への命令、操作、洗脳を隠蔽する「外套」である。
  • 産業技術システムの支配層は、その保全と拡大に関心を持つ。
  • 彼らはメディアや教育者を通じて道徳的概念を促進する。
  • システムにとって、調和的で従順、法や規則に従い、協力的行動をこなせる機械のような人々が理想である。
  • 産業技術システムが恐れるのは「暴力」である。
  • システムは私たちに「暴力はいけない」と洗脳し、それは非常に成功している。

ざっとこんなところです。

 

特におもしろいと思ったのは芸術や性の解放が人々を自由だと錯覚させるためにあるということ。そういえばフロイトが流行したのも近代的な現象でした。

 

また、「日本人論」の描く日本人像が完全に産業技術システムに都合のいい市民と合致していることはおもしろいです。日本政府は無能に見えてなかなかやり手かもしれません。

 

 

テッド・カジンスキー。

現代では、ほんとうに唯一無二の思想家ですね。

 

彼のしたことを肯定すべきかは難しいですし、「文明に対する革命」はかなり受け入れがたいところもある。

 

ひとつ言えることは彼はまったく狂っていないばかりか、紛れもなく天才だということです。彼の文章を読んでいると本当にそう思います。