齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

セオドア・カジンスキーと道徳~前編

「なぜ人を殺してはいけないのか?」

 

簡単そうで難しい質問です。

 

殺人が肯定されうる状況も存在するからです。

  • 正当防衛で人を殺すこと。
  • 重罪人を処刑すること。
  • 国家が戦争で自国や敵国の兵士を殺すこと。

これらは道徳的に許容されうる。

 

道徳という概念は常に正しいように見えますが、明らかに限界を持っています。

 

道徳とは何か? という問題について、天才爆弾テロリストのテッド・カジンスキーに聞いてみましょう。

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The Ten Commandments by Lucas Cranach the Elder 1516

道徳と革命

以下はTheodore J. Kaczynski氏の「Morality and Revolution」(1999年、グリーン・アナーキスト誌に初出)からの引用になります。強調は私による。

道徳、罪悪感、そして非難への恐怖は私たちの頭の中で警察のようにはたらき、私たちの自発性、自然な生、完全な生命を生きることを破壊する…… 私は他者がどう考えるかを気にせず、自分のきままに、自然の欲するままに行動しようとする…… 私は人生においてなんら制約がほしくないのだ。私はすべての可能性に対して開かれていたい……。 つまり……すべての道徳を破壊する。Feral Faun, “The Cops in Our Heads: Some Thoughts on Anarchy and Morality.”

道徳の概念は、システムが私たちをコントロールするために用いるもっとも重要な道具であり、私たちがそれらから解放されなければならないという慣習的な理解は事実である。

 

しかし君がむしゃくしゃしている日を想定しよう。君は無害だが醜く老いた女性を見る。彼女の容姿は君をイライラさせる。そして君の「自然な衝動」は彼女を殴り倒し蹴りを入れるよう駆り立てるだろう。あるいは君が小さな女の子に「関心」があると想定しよう。君の「自然な衝動」はかわいい四歳の少女を選び、彼女の衣類を切り裂き、彼女の恐怖の叫びのなかレイプするよう駆り立てる。

 

このような行動によって不快にならない、またはそれが行われているのを見て止めにかからないアナーキストはこの記事は読んでいないと私は賭けよう。これらは私たちの社会が私たちに課した道徳的条件づけの結果なのだろうか?

 

そうではないと私は主張する。一種の自然な「道徳」(引用符に注意)が存在すること、あるいは公正という概念がすべての文化において共通に存在し、さまざまな形態であらわれるが、しかしそれはしばしば特定の文化に特有の力によって隠蔽されたり改造されると私は提案する。

人類不変の六原則

おそらく公正の概念は生物学的素因だろう。いずれにせよ以下の6つの原則に要約される。

  1. 事前に傷つけられたり、傷つけると脅された場合でない限り、だれをも傷つけてはならない。
  2. (自己防衛と報復の原則)脅威となる他者に自分が傷つけられることを未然に防ぐために、あるいはすでに危害を加えられた場合、あるいはすでに傷つけられた場合の報復として他者を傷つけることができる。
  3. ある善行はおかえしに値する。だれかが良くしてくれたら、彼または彼女が必要とする場合それに相当する恩恵を与える。
  4. 強者は弱者に配慮しなければならない。
  5. 嘘をつかない。
  6. 自分のした約束や合意を誠実に守る。

この六原則がしばしば文化的諸力によって隠蔽されることの2つの例をとろう。ナバホ族(訳注:北米インディアン南部の一主要部族)では、部族民ではない者と取引するときには嘘をつくことが「道徳的に許容」される。これは道徳原則、1,5,6に反する。そして私たちの社会では多くの人が報復の原則を拒絶する。

 

なぜなら産業社会は社会秩序の必要性が大きいこと、そして個人の報復行動が破壊的な潜在力を持つために、私たちは自らの報復衝動を抑圧するよう訓練され、(「正義」と呼ばれる)あらゆる重大な報復を司法制度へゆだねる。

 

このような例はあるものの、私はこの六原則は普遍的傾向を持つとなお主張する。しかしこの六原則の普遍性を受け入れない者がいようと、私はこの記事を読むほとんどすべての読者がこの原則に同意するものと想定することに不安はない(報復の原則に対する例外はあるだろうが)。したがって六原則は現在の議論の基礎として用いることができる。 

 

六原則は、しばしば社会的状況においては捻じ曲げられることになります。特に現代産業社会では報復原則は抑圧される傾向にあるようです。 

六原則は道徳ではない

六原則は道徳という概念と区別すべきだとテッドは主張します。

 

私はいくつかの理由で六原則は道徳規範として扱われるべきではないと主張する。

 

第一。この原則は漠然としており、さまざまな形で解釈が可能である。具体的な事例に対する一定の合意は存在しないだろう。

 

例えば、もしスミスがラジオをうるさく聞いて楽しむことを主張し、それによってジョーンズの睡眠を妨げ、ジョーンズがスミスのラジオを破壊した場合、ジョーンズの行動はスミスに対する危害なのか、あるいはスミスがジョーンズに加える危害に対する正当な自己防衛なのか? この問題についてスミスとジョーンズは合意しないだろう!

 

(まったく同じことに、六原則の解釈の限界も存在する。私は無害な老女に対する残酷な身体的虐待や四歳女児へのレイプを正当化するためにこの原則を解釈する者を見つけることは、いかなる文化だろうと難しいと想像する)

 

 

六原則はさまざまな形で解釈できるために、具体的な法律や規範として制定すると問題が生じるということです。

 

しかし六原則が広く解釈されうるとしても、幼女をレイプするような行為に対しては六原則で正当化することはほとんど不可能であり、そこには限界があることが記述されています。

 

第二。ときに「道徳」は六原則の例外を正当化できることにほとんどの人は同意するだろう。もし君の友人が木材会社のもつ伐採設備を破壊し、そして警察がきて君にだれがやったのか問うときに、グリーン・アナーキスト(訳注:環境主義無政府主義者)のだれもが嘘をついてこういうことに同意するだろう。「私は知らない」

六原則は容易に例外を生みだすことができます。

 

第三。この六原則は本当の道徳法のような力と制限を持っているようには一般的にみなされていない。人々はそうすることの「道徳的」正当化なしに、しばしば六原則を侵害する。さらに、すでに述べたことだが特定の社会の道徳規範は頻繁に六原則を無視したり衝突する。むしろ法律よりも六原則は一種のガイド、あとにうんざりしながら反省して、そうすべきではなかったと思い起こさせるような、やわらかな衝動の表現にすぎない。 

六原則は人々を制限するような力を持ちません。六原則は社会的状況によって容易に無視されうる。

 

しかし、人はその行為をやんわりと、漠然と後悔することになる。そういった感情への働きかけが六原則といえます。

 

第四。私は「道徳」という言葉は、特定の社会、文化、またはサブカルチャーに固有の、社会的に課される行動規範を指すためにのみ用いることを提案したい。六原則は普遍的な傾向をもっており生物的素因を持つ可能性が高いので、道徳と呼ばれるべきではない。

「道徳」は特定の社会や文化に限局される行動規範であり、六原則は人類に共通する普遍的感覚ということです。

アナーキズムと六原則

ほとんどのアナーキストは六原則を受け入れるだろう。アナーキスト(少なくとも個人主義タイプのアナーキスト)がしていることは、彼を取り巻くあらゆる具体的状況に対して自らの六原則を解釈する権利を主張することであり、またあらゆる権威に彼の行動を決定させるままにはせず、六原則の例外を生み、自らの行動を決定することを意味するからである。 

アナーキストは六原則の概念を受け入れます。

彼らは道徳の教えるところではなく自分の望むようにふるまい、社会や法律の強制する生き方ではなく自分の行動決定を望むからです。

しかしながら、人々が六原則を自分に向けて解釈しようとするとき、各々個人が違ったように解釈するため衝突が生じる。何よりこの理由によって、実質的にすべての社会は六原則よりもより簡潔な方法で行動を制限するよう進化した。言い換えると、多くの人々がともに長い期間過ごす場合、ある程度の道徳が発展することはほとんど避けられないことだ。ただ隠者のみが完全に自由である。

ある程度秩序立った社会では、六原則ではなく道徳や法律が重視されます。六原則はだれもが共通に解釈できるわけではないからです。 

 

これはアナーキーの欠点を暴こうとするのではない。もし完璧に道徳から解放されたような社会が存在しないとしても、道徳の締めつけが強い社会と弱い社会では大きな違いがあるからだ。

 

アフリカ熱帯雨林のピグミー族は、Colin Turnbullの著書The Forest People and Wayward Servants: The Two Worlds of the African Pygmiesによって説明されることによると、アナーキストの理想とはそう遠くない社会の例を示している。

 

彼らのルールは少なく柔軟で、個人の自由に対してとても寛大である。(しかし、そこに警察や裁判所や監獄がないとしても、Turnbullは殺人が彼らの間に起きないこと述べている)

完全に道徳のない社会はないとしても、未開部族ではアナーキストの理想に近い社会が存在するようです(狩猟採集社会はなぜ平等か)。

終わりに

長くなってきたので前半はここまでにします。

 

元爆弾テロリスト(3人殺害)のテッド・カジンスキーに道徳のなんたるかを教わる……といういささかファニーな試みなのですが、やはり彼からは類稀な知性を感じます。

 

「なぜ人を殺してはいけないという道徳があるのか?」という問いに対しては、「とりあえずそうしておけば社会がうまくいくから」と答えられます。

 

「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いには、自己防衛や報復のためであれば殺人も許容されうる、となります。

 

簡単に言えばブラック企業で鬱病になって自殺するのが道徳であり、サイコパス経営者に報復をするのが六原則です。 

 

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タイ人と日本人の違い 日本は道徳志向が強いが、タイ人は自然的衝動に従う

六原則の特徴

六原則は道徳とはどこが違うのか、軽くまとめておきます。

  • 個々人に多様な解釈が可能
  • 例外が多く存在する
  • 実効的な力をもたない(社会秩序の維持には不向き)
  • しばしば容易に無視される
  • 特定の社会に限局されず、人類に普遍的な傾向を持つ

 

後編:セオドア・カジンスキーと道徳~後編 - 齟齬