齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

自己家畜化――人間の隷従の本能

 人間は家畜化されている――遺伝子レベルで。 

 

という、個人的に衝撃的だった学説を紹介します。

 

ホモ・サピエンスはネアンデルタール人などの「野生の人間」と比べて、家畜化された性質を強くもっているようです。

 

人間は自由を欲する存在だ、と私たちは信じています。しかし、人間は生まれつき隷従の本能を持っているのかもしれません。

 

 

自己家畜化とはなにか

まず、家畜化domesticationとはどういうことなのか。

 

オックスフォード辞書によれば、動物をペットとして手懐けたり、放牧すること。また、植物の栽培も含まれるとあります。

 

文化人類学では家畜化は非常に重要です。家畜化がなければ文明は存在しません。私たちは植物や動物、あるいは人間を家畜化することによって高度な文明社会を実現しています。

 

しかし、「人間が家畜化される」とはどういうことなのでしょうか。

家畜化された動物の特徴

まずは動物の家畜化の例を見ていきましょう。

  • オオカミ――イヌ
  • ヤマネコ――イエネコ
  • イノシシ――ブタ
  • オーロックス――ウシ

なんとなく違いがわかるのではないでしょうか。 家畜化された動物は、さまざまな共通する特徴を持ちます。

 

以下に調べた限りの情報を書いておきます。

  • 柔和さ(攻撃心の低下)
  • 頻回または長期の発情期
  • 顔の平面さ
  • 毛色の多様性
  • 折れた耳
  • 短形の顔、短いマズル(口と鼻の周囲)
  • 丸まった尾
  • 小さな歯
  • 細い骨格
  • 小さな頭蓋骨容量
  • ネオテニー的(幼児的)行動
  • 性的な身体的差異の減少

これらの変化は攻撃活動の必要性と関係しています。

 

長い牙は外敵との闘争に有利ですし、性的差異(たとえば孔雀の羽根)は生殖競争に有利に働きます。

 

そういったアグレッシブな心身の特徴が、家畜化によってなくなっていく。

ネオテニーの例

ネコ科動物、カラカルの例。

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成体のカラカルは、チーターのような俊敏な肉食動物様。

 

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幼少期のカラカルは、イエネコっぽい雰囲気です。  

 

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イエネコ。 かわいいです。

人間の家畜化

「人間の家畜化」といっても、陰謀論のように「宇宙人やユダヤ人の家畜」というわけではありません。

 

人間が家畜動物のように、従順な性格やネオテニー的な身体的特徴を選択していく――そういった自発的な変化が起きています。

 

人間が自己家畜化されていると科学者が主張する理由の第一は、家畜化された種のように現代の人間が従順で我慢強く、協調的で親社会的なことにある。第二の理由は現代の人間はネアンデルタール人と比べたときに、繊細でか細い肉体を持っていることである。

 

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ネアンデルタール人(画像右)と比べれば、私たちは「幼児的」かもしれません。

 

そういえば、ニーチェはキリスト教道徳を奴隷道徳としていますが、「神」という存在は、架空のものを創造してでもなにかに仕えたい、家畜的精神が生みだしたものなのかもしれません。

 

遺伝的エビデンス

で、イエネコやイヌの持つ遺伝子的特性(従順な性格や平面的な顔に関与する)を調べることで、人間が家畜化されているかを調べた例があるようです。

 

イエネコやイヌの持つ遺伝子と人間に共通して、ネアンデルタール人などの遺伝子と共通しない部分が存在することが明らかになった。さらには、オラウータンやチンパンジー、ゴリラといった霊長類(いずれも家畜化されていない)とも共通しないとバルセロナ大学の Cedric Boeckx氏は述べています(ScienceDaily)。

 

わかりやすくいえば、家畜化された動物のもつ遺伝的性質を

  • 持つ――――ヒト、イエネコ、イヌ
  • 持たない――ネアンデルタール人、霊長類、ライオン、オオカミ

すなわち、現代の「人間」は、イヌやネコのような特徴をもっており、彼らと同様に家畜化されているということです。

家畜化の遺伝子は初期人類から存在した 

文明によって家畜化が進んだ――つまり、安定した食料供給や社会の複雑化によって家畜的特徴が生じたと考える人がいるかもしれません。たしかに、最初期のホモ・サピエンスはがっちりした頭蓋骨を持ち、家畜化の傾向は現代ほど強くなかったようです。

 

しかし、かなり初期のホモ・サピエンスでも家畜化を示す遺伝子発現はあるようです。

 

家畜化は農耕や人口密度の増大によって、さらに進んでいったと考えられている。

 

東アジア人はもっとも家畜化されている? 

「平面顔」「骨格の細さ」「短形の顔、短いマズル」「柔和さ」といった傾向でわかると思いますが、東アジア人がもっとも家畜化されているというデータがあるようです。 

ERBB4は神経堤の発達に重要な役割を果たし、新皮質と海馬のニューロン遺伝子発現を調節するERKを負に調節するニューレグリン受容体である。ERKの上流にBRAFが密接に関与している。BRAFはYWHAH(イヌ)、PPP2CA(ウマ)と相互作用し、ERBB4は現代のヒト、ウシにおいて選択を示す。BRAFの上流、SOSIでは家畜のキツネが選ばれる。

 

ERBB4は、NRG1、NRG2、NRG3、NRG4、およびADAM17と結合する。NRG2は、ネコ、ウシ、およびイヌで選択される。NRG4はウシで、NRG3はAMH(解剖学的現生人類)で選択される。

 

近年、ERBB4の経路の選択の地域的な多様性のエビデンスがある。ERBB4は非アフリカ人において強固なシグナルを持っており、NRG3は西ユーラシアにおいて強い選択の徴候がある。一方でNRG1, NRG2, そしてADAM17は東アジアにおいて選択の徴候がある。

Genetic evidence for self-domestication in humans | West Hunter

 

よく理解もせずに直訳しています。

 

ようは、アフリカ人はもっとも家畜化されていない。東アジア人はネコ、イヌ、ウシと同じような遺伝子発現をしている。西ユーラシア人(≒ヨーロッパ人)は解剖学的現生人類(10万年ほど前の初期人類)と同じような遺伝子発現をしているということです。

 

当然ながらこういった人種的問題は一種のタブーです。「将来はアフリカ人がアジア人を支配するのか」「ヨーロッパ人(白人)やアジア人が黒人より進歩的だというのか」といった主張がコメント欄にある。

 

ただ、東アジア人がネオテニー的というのは事実なのかもしれません。顔の幼さ、細い骨格などはたしかにネオテニー的ですし、過度の従順さは経験的事実としてあります。

 

東アジア人が人類の中でもとくに家畜化されているというのは本当かもしれない。  

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「これらの日本人女性は短足で、ネオテニー的である」(Neoteny in humans - Wikipedia)と少々問題ある記述が。

 

まとめ:家畜的傾向は遺伝的に組み込まれていた

人類の家畜的傾向は遺伝子レベルでした

 

権力者の前ではへいこらする腰巾着、金魚のフン、コバンザメ、 太鼓持ち、べったりなイエスマン。

 

こういった人々は非常に多くみられます。私たちは彼らを「権力者の犬だ」「ペットだ」と批判することがあります。しかし、これは人間の自然なあり方なのかもしれません。

 

もちろん「家畜化」のもたらす効果は阿諛追従だけを示すのではありません。「秩序立った社会」――コンフォーミティな、融和的な社会はまさに家畜化によって実現している。

 

そして、家畜的な傾向は文明の発展にしたがってますます増強されてゆくのです。

 

補遺:人間の家畜化とアナーキズム

牧人はいなくて、畜群だけだ! だれもが平等だし、また平等であることを望んでいる。それに同感できない者は、みずからすすんで精神病院に入る。

『むかしの世の中は狂っていた』――とこの洗練された人たちは言い、まばたきする。

 

かれらは賢く、世の中に起こるなにごとにも通じている。そして何もかもかれらのお笑い草になる。やはり喧嘩はするものの、かれらはじきに和解する、――さもないと胃腸を害するおそれがある。

 

……『われわれは幸福をつくりだした』――『おしまいの人間』たちはこう言い、まばたきする。

(「ツァラトゥストラはこう言った」氷上秀廣訳)

 

個人的にこの学説は非常にインパクトがありました。

 

アナーキズムに傾倒してから私は次のように考えていました。

 

「人はみな自由を愛する。不自由であることは、人間の本性に反する不幸な状態である。したがって人類はみな自由に解放されるべきなのだ――」。

 

しかし、ですよ。

 

人間がもしニーチェのいうような「奴隷根性」を遺伝子レベルで持ち合わせているのであれば、彼らを解放することはおせっかいのありがた迷惑でしかない。

 

アナーキズムを知る以前、私は次のように考えていました。人間は三種類に分けられる。主人的な人々、奴隷的な人々、主人でも奴隷でもない人々――つまり、「自由」は少数者の特権であり、大多数の者(主人と奴隷)にとっては価値がないということです。

 

結局、この考え方が正しいのかもしれません。だれもかれもが自由を望んでいるのではない。他者を服従させて偉そうに生きることが喜びの人、権力者に犬のように腹を見せて生きていくことが幸福な人もいる。

 

……それが現実なのかもしれません。

 

うーん、人間、それでいいのか?