齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

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義務教育――子どもたちを閉じ込める監獄

「なぜこんなことを勉強しなければいけないの?」

「こんなことが将来役に立つの?」

 

「役には立たない。学校教育とは何か。君たちを管理し、強制し、無意味なことを教え、無能化し、机に縛りつけて自由を奪い、服従させることだ。服従させる、それが学校教育の第一義である」

 

公教育が教えることは「服従」です。

 

学校を批判的に考えることなしに現代社会を語ることは、実は何も語っていないに等しい。学校教育によって私たちの社会は形作られているからです。 

 

たとえば私たち日本人の「民族性」とされる勤勉さ、臆病さ、自己主張のなさ、コンフォーミズム、集団主義は抑圧的な学校システムによって日々再生産されています。

 

義務教育は子どもたちの監獄だ。

 

そう書かれた記事があったので全文訳します。

 

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義務教育は無垢な子どもの監獄である

原文は「Compulsory Education is Jail for Innocent Kids」(著作権フリー)。

最近、ガーディアン紙はイタリアのミラノにおける公立小学校における恐ろしい物語を報告した。昼食時間に、校長がある児童を食堂から連れだし、同級生たちと離れてひとりで教室で昼食をとるよう強いた。なぜか? それは彼女が現行犯で捕まったからだった。ミラノの公共学校制度の提供する給食の代わりに、彼女は家からもってきたサンドイッチを食べたのである。


市の学校食政策を担当しているアンナ・スカヴッツォ氏は、食品安全の問題だと語った。彼女のスポークスマンは、不健全な食事による子供への悪影響を心配した結果であり、「もし子どもたちの食事を何もかも許したら、何か起きたときにどうするのか?」と疑問を呈した。

 

このことは食品安全とは何ら関係なく、そしてすべては子どもたちを権威に服従するよう洗脳するための脅迫と洗脳であることに、君は賭けることができる。権威者は国家であり、教師と学校管理者はその代理人である。

 

彼らがしようとしたこと――そして彼らが過去2世紀の間、国家によって義務教育制度が成立していらい続けてきたこと――は、子どもたちが柔軟で抵抗できないうちに、精神を型取ることである。言い換えれば、義務「教育」は無垢な子どもたちを国家の従順な奉仕者を生む工場で奴隷化するこころなき制度である。これを表現するにはロボトミーという言葉が適切だろう。

 

スポークスマンは彼女自身このことを認めている。彼女が無意識に「彼らは一緒に座って、適切な、安全でオーガニックな食事を学習する必要がある。ポテトチップスやチョコレートばかりを食べていてはいけない。彼らは学校にいるのであり、つまり共同体にいるのだから」と認めたとき。

 

しかし互いに座り、安全でオーガニックな食事をとることはイチジクの葉に過ぎない(訳注:アダムとイブの陰部を隠す葉っぱ)。座る、立つ、蟻のように行進すると彼らが言われたとき、そして言われたとき言われたものを彼らが食べるとき、秩序への無思考の服従が義務「教育」のすべてである。これがすべての公共学校システムが第一につくられた目的であり、そして出席が強制となった理由でもある。強制的な、「自由」教育は国家の道具であり、おそらくそのもっとも重要なものである。国家が第一に個人の生活の管理と権威を主張するのは教育を通じてである。本当のコミュニティは自由な連帯を通じてしか生み出されない。したがって義務教育は真の、意義深いコミュニティの妨害でしかない。

 

義務「教育」の存在が若者たちに未来の生活に必要なものを与えることを認めるとしても、またその表示された価値どおりに受け止めるとしても、教えられていることの大部分は、ほとんどの人々にとって使い物にならない。私たちはまず第一に決して必要のないことを学習するために何年も生活を消費する。そしてもしそれが就労を促進する広範の資格制度でなければ、学校とはほぼまったく必要なものではなくなる。

 

国家からやってくるすべてのものと同じように、義務「教育」は選択の自由に反する。選択の幅がAからAのとき、そこに自由はない。そしてそこには「教育の権利」などない。自己や自分の子どもを教育するかどうか、そしてどのような状況で教育するかは、各々自らが決めるべきである。しかし国家が主人であるとき、そのような自由は存在しない。親たちは彼らの子どもを明け渡さなければならない、以上だ。義務「教育」が正しいことだと主張することは、国家に子どもたちや親たちの権利を嘲笑させることである。それはもっとも弱く、もっとも脆弱な大衆の奴隷化である。

 

義務教育は西洋のイスラム教のマドラサの世俗版であり、国家は近代的で独裁的な、すべてに浸透した神である。国家はすべての宗教の中で最悪である。しかしすべての宗教制度のように、国家は滅びる運命にある。しだいに、それらは代替可能となりつつある。ホーム・スクーリングや脱学校が考えられるようになってきた。そして人々は仮面の下を見始めるようになった。

 

前世紀では宗教への参画が激減したように、国家の学校への世俗的集団の参加は、ますます個人的自由に対する矛盾であると見られるようになっていくだろう。

まとめ

――ミラノでサンドイッチを持参した児童が、強制的に教室で給食を食べさせられた。

 

という時事問題から始まる記事ですが、日本では「何が悪いの?」となりそうです……。このあたりは諸外国との温度差を非常に感じます。

 

記事をまとめます。

 

学校は子どもたちを国家の従順な奉仕者とする工場である。

日本も米国も、皆教育制度のベースとなったのはプロイセンの教育制度でした。

これは本当の父親――「父なる国家」を子どもたちに植えつけるために生みだされたものです。つまり、家族の上に国家が立つ君主制の誕生です。

 

ディートリッヒ・ボンヘッファーは「第二次世界大戦はよき学校教育が生んだ避けられない必然であった」と述べましたが、たしかに学校がなければ忠実な兵士は存在しなかった。「国家のために死ぬ」「天皇のために死ぬ」なんて考えはなかったでしょう。

 

学校の目的は国家の奉仕者――勤勉な労働者、忠実な兵隊、従順な国家主義者を生みだすことにある。  

 

義務教育のコミュニティは、本物のコミュニティが生まれることを妨げる。

 

嫌いな集団、苦手な集団からは逃げるのが人間の自然でした。

 

しかし、現代の私たちは学校、家庭、職場、あるいは軍隊のような強制的に集められた「コミュニティ」に適応しなければならない。そういった強制的な場空間に適応できない人間は「社会不適合者」と烙印を押される。

 

しかしだれもが知るとおり、学校や職場の人間関係なんて楽しいものではないし、望んだものでもない。

 

好きな人、良い人、優れた人と自然な関係性を築き上げるのが本当のコミュニティです。学校のような強制的場空間は偽りのコミュニティを生みだし、本来のコミュニティを破壊するよう作用する。

 

学校が教えることは訳に立たない。就職に役立つ資格を与えるのでなければ、学校は無価値である。

 

学校の教えることは本質的に無価値です。使い物になりません。

 

日本の歴史教育を考えればわかります。平安時代に何が起きたか、武将が領土争いを展開したかなどどうでもよいことを覚えさせ、戦時中や戦後に何が起きたかについては何も教えません。 そちらの方がはるかに重要なのに。

 

日本の英語教育の害毒については言わずもがなで、日本の英語教育を受けるほど英語ができなくなります。

 

ですから学校の勉強は就職資格以上の価値をもちえない。

 

日本で皆教育が制度化されてから、出席率が急上昇したのは立身出世の可能性が認知されてからです。それまで民衆にとって児童は貴重な労働力であり、特に女児は学校に行かせない家庭が多かった。しばしば大学が「就職予備校化」していると指摘されますが、それは昔からなのです。

 

これは今の貧困国でもそうで、「勉強が好き」と彼らが言うのは勉強によって家内労働から解放されることと将来貧困を抜け出せる可能性があるからです。勉強それ自体が楽しいのではありません。 

 

学校の本性が次第に気づかれつつある。ホーム・スクーリングや脱学校(deschooling)という代替案が広がっている。

 

これは本当にいい流れだと感じます。イバン・イリイチやフーコー以降「学校は悪である」と考える人が増えています。

学校は監獄や精神病院と同じ社会的機能を持つ。人々を定義し、分類し、管理し、統制する。(ミシェル・フーコー) 

 

「子どもは未熟だから大人たちが指導しなければならない」と考える人もいるでしょう。

 

しかし、「彼らは劣っているから、未熟だから、無知だから、優れた、成熟した、先進的な人間が管理する必要がある」――この考え方は、実は20世紀アメリカの奴隷制肯定論と同じなのです。

 

学校は子どもたちの自由を奪う。ゆえに悪である。 

 

洗脳によってわかりづらくなっていますが、こういった当たり前の感覚が取り戻されるとよいですね。

 

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