齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

生きる権利――マックス・バジンスキー

自分の人生をコントロールできていない人――特にコントロールしようともしない人は、死んでいるも同じではないでしょうか。

 

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"Q Train" by Nigel Van Wieck

 

Max Baginski マックス・バジンスキー(バギンスキー)というドイツ系アメリカ人が優れた文章を書いていたので紹介します。

 

彼は靴屋の息子で学歴は小卒でしたが、渡米後はシカゴ・ワーカー誌の編集者、フリーダム誌、マザー・アース誌の出版に関わり、20世紀初頭のアナーキズム運動に少なからぬ影響を与えた人物です。

  

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マックス・バジンスキー(右)。ニューヨークにて。

生きる権利

原文はThe Right To Live | The Anarchist Libraryです。

 

現代人は政治的権利をふんだんにもっている。彼は市民権を持つ、もし善良な市民でアナーキストでないならば。彼は自らの支配者と、看守に投票することもできる。彼は、マジョリティの一員として、政府が「人民の名の下に」行動することを見て楽しみさえする。

 

この特権はとりわけひどい虚偽だ。なぜなら政府や裁判所の活動はつねに一つの目的を持っているからだ。つまり、強盗と支配を強めること。言い換えれば、人民は自らを依存と奴隷制に仕向けている。

 

政治的権利の空虚と虚偽は、私たちがそれらに「生きる権利the right to live」を含まないと考えるとき、完全に明らかになる。

 

生きる権利――つまり、生存の手段の確保、生活の物質的基盤を保証する社会の、呼吸のように自明な組織化――この権利を現在の社会は人々に与えることはない。

 

存在の支配形態の暴虐的な性格は、私たちが生きる権利を批判的な試験に課したときほど明らかに実証されることはない。この権利は強制、貧困、依存など多様な千の方法によって、日々攻撃され、無効化される。「生活と財産の保護」という必要によって、卑劣な法律を持つ政府という殺人機構を正当化することは残酷な皮肉である。

 

数千の法律や憲法の中には、社会の成員に生きる権利を保証する記述は一行もない。財産の保護は役に立たない。高価な機構である警察や裁判所、看守や執行官を正当化する十分な財産を大多数が所有していない。これは財産の神聖さに基づく社会の主要な特徴である。

 

生きる権利は第一に、所有とそのもたらす権力に依存する。しかしわずかな少数派が所有し管理しており、大部分の人々がそれを懸念する限り、生きる権利はキメラでしかない。

 

アナーキズムは、生きる権利を哲学の基軸としてとらえる。人間的な社会の必要不可欠な基盤として考える。

 

今日では貧しい、飢えた、ホームレスの人々は生きる権利を訴える神の導きも、裁判所も見つけられない。もし彼が生きる権利を主張すれば、彼はすぐさま監獄やワークハウスに入れられる。すばらしい富のなかに存在しながら、彼はしばしば存在に最低限必要なものすらもたない。彼は孤立し、忘れられることに耐えている。一見すると、すべての場合に彼は豊富な食料、衣類や快適さをもっている。その千分の一は、彼を絶望と破壊から救い出すだろう。しかしもっとも小さな生存権さえ彼に与えられておらず、彼は物事に対して権力を働きかけることができない。この欠如は彼を社会的なパーリア(不可触民)とする。

 

必要なものを用いる権利が強奪されたり、生きる権利が剥奪されたときに、市民権や政治的な「自由」、また彼の投票者としての選挙日だけの主権がどうやって実現されるだろうか?

 

すべてが、すべての生活の本質が一定の階級に独占されているとき――法律に、軍隊に、裁判所、そして絞首台に保証されている――特権的階級が完全に人生を支配し、その次に残りの人々の服従が起きることは自明である。

 

今日、生きる権利を要求することはもっとも革命的な要求である。特権階級はそのことに気づいている。この要求がどこで深刻に求められようと、「秩序」の保護者たちは社会革命の旗がたなびくことをすぐさま認識する。

 

今日偽善的に呼ばれるところの「秩序」は、生きる権利が喜ばしい現実となるためには滅びなければならない。

まとめ

この記事は1912年に公開されたものですが、100年以上前の記述とは思えないほどアクチュアルですね。

 

まさしく国家とは強盗と支配を増強しようとする存在であり、そのために刑務所や裁判所がある。そんな政府が「生活を守るためにあるのだ」と主張するのはひどい皮肉である。

 

少数者に権力が集中し、大部分の人々はその命運を握られてる。「持たざる人々」は生きる権利を主張しようとすれば監獄やワークハウスに入れられる。(ワークハウスってのは大雑把にいえば懲治場のことで、現代の精神病院と刑務所の原型です)。

 

そして彼らはパーリア(不可触民)である。インドのカースト制が出てきましたが、日本の精神障害者や底辺労働者、生活保護者はまさに社会的なパーリアだといえます。

 

現在の階級社会は大多数のひとびとを殺します。肉体的だけではなく、精神的に、社会的に、実存的に。

 

right to liveは「生きる権利」と訳しました。生存権とか生命権とかでもいいと思うのですが、ちょっと意味が狭くなる気がします。

 

ただ肉体的に生きているだけでは「生きる」とはいえません。自分の人生を自分でコントロールする。自分の内なる声に従って生きる。すなわちオートノミー、自己統治がなければ生きているといえないのではないでしょうか。

 

そのように周囲を見渡せば、ほんとうに生きている人間は非常に稀です。バジンスキーの言うとおり、私たちは息苦しい秩序を破壊して生きる権利を追求すべきだと思います。