齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

マルクス主義はなぜ全体主義化するか?

マルクス主義は自由と平等に始まり、支配と抑圧に終わった

 

共産主義を目指す国家は抑圧的でした。

 

独裁政権による全体主義化。

民衆虐殺(デモサイド)。

  

共産主義は理念としてはすばらしいが、理想主義にすぎない、としばしば言われます。

 

あらゆる抑圧からの解放、人が人を支配することの廃絶。

 

そんなマルクス主義がなぜ転倒してしまうのか? 

 

調べてみました。

 

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マルクスとエンゲルス

マルクス主義国家はなぜダメになるのか

The Marxist Paradox: An Anarchist Critique - Anarkismoという記事を見ていきます。著者はWayne Priceというアナーキスト。

 

原文はWayne氏によるRonald D. Tabor氏の大著「The Tyranny of Theory」への書評。文中に登場する「ロン」氏は彼のことです。

マルクス主義の歴史

マルクス主義の歴史は血塗られています。

共産主義はアナーキズムと同じように、19世紀の民主主義、社会主義、労働階級の解放のため運動に起源を持つ。そのゴールは資本主義、階級、国家、そしてすべての抑圧の終焉である。……

アナーキズムと共産主義はそのゴールが非常に似ています。

しかし結果はどうだったか? マルクス主義の最初の運動は、ヨーロッパやいたるところに社会民主党を生みだした。それらは資本主義を支援し、革命を防止することに終わった。既存の国家を、ブルジョワ民主主義を、西洋帝国主義と戦争を支援した。現在社会民主党は、新しい社会制度を提唱するというすべての偽善を放棄している。

日本でも日本社会党が日露戦争で浮かれて戦争支持に周り、多くの共産主義者がアナーキスト(多くは無政府共産主義)に転向しました。

レーニンやトロツキーは革命的なマルクス主義に回帰するように思われた。彼らの活動は「スターリニズム」に終わった。労働者と農家、そして数千もの共産主義者を殺した、一連の怪物的な、国家資本主義、専制君主である。現在ではこれらは伝統的な資本主義に崩壊している。

共産主義を目指す国家は資本主義国家よりも血塗られた国となることが多い 。

なぜマルクス主義は良く始まり、悪く終わるのか? 疑いなくそこには「客観的力」が存在する……。

では、その客観的力とはなんなのか。

 

一見完璧に見えるマルクス主義のどこに問題があるのか。

マルクス主義は全体主義である

著者は、元非正統的トロツキスト革命社会主義連盟のリーダーだったロン・テーバーの著書を参照しています。彼はマルクス主義者からさらに左に振れてアナーキストになった人です。

ロンの結論は、「マルクス主義は、今見ると、全体主義のドクトリンであり、マルクス主義者のプログラムを実現するためのあらゆる試みであり、どれだけ良い動機があろうと、権威主義と国家支配を生みだす」というものだ。

マルクス主義は全体主義のドクトリンである。それは国家を社会主義のために用いるというような計画、そしてヘーゲルに基づく哲学に根ざしているとロンは主張します。

全体主義とはやや議論の余地のある言葉だ。ロンが言いたいことは、私が思うに、資本主義システムではナチ・ドイツやスターリン下のロシアのように、国家が一連のイデオロギーとともに一党によって支配されており、社会のすべての側面を支配しようとする場合のことだ。これは政府に歯向かわなければ人々を放っておく以前の君主制や夜警国家とは異なる。

ロンは人々を管理統制するような権力の働きかけを全体主義と表現しているようです。

国家は「自発的に」崩壊しうるか?

マルクスは国家が支配階級に奉仕し、社会のその他を抑圧する本質的に抑圧的な機関であることに同意する。協働的で、自由で平等な社会は国家をことごとく廃絶するだろうと。

国家を抑圧的なものだと考えたマルクスですが、なぜか彼は国家は自発的に「存在を辞める」と考えました。

マルクスは労働者階級とその同盟は国家を、新しい国家の創造を廃止すると考えた。国家は資本家とその支持者を抑圧するだろう。労働者の国家は資本主義によって中央集権化され、安定した経済を奪取する。このことは経済のすべてまたはほとんどを中央集権化されたシステムに国有化する。(中央集権化とは少数が中心部を占め、ほとんどの人は周辺部に位置することを意味する)。ときとともに、中央集権化された国家が「国家」を辞める。それは強制的ではなく、慈悲による、「人々を管理するのではなく、物品を管理する」機関となる(まるで人々を支配せずに管理できるかのように)。

 

このような計画が、実際の場合は、全体主義を生みだし続ける結果になることは驚くべきことではない。ロンが言うように、もし革命的な政党が新しい国家を建設することにすべてを注ぎ、一方で国家が突然自動的に分解することを期待するならば、その結果は……国家である。

国家は自発的になくなることはありません。

クロポトキンは1910年に警告している。「国家にすべての経済生活の源泉を渡すこと……産業のすべての管理を委ねることは……新しい暴政の装置を生みだすことを意味する。国家資本主義は、官僚と資本主義の権力を増すだけである」 

絶対権力を持てばどんな組織でも腐敗します。

プロレタリアート「独裁」

マルクスはコミューンの根本的な民主的構造を共産主義革命の前駆体として指示した。エンゲルスはこのことを「プロレタリアート独裁」と呼んだ。このことはしばしばマルクスのマルクス主義の自由主義的―民主主義的な側面をあらわすものとして引用される。

実は、有名な「プロレタリアート独裁“dictatorship of the proletariat"」という言葉の「独裁」は、現代的な「独裁」を意味してはいなかった。

 

当時は「議会による/人民による/民主主義による独裁」というような表現は肯定的に用いられた。Hal Draperによれば、マルクスとエンゲルスは同語を12回用いたが、それぞれを調べた結果、「労働者による支配」以上の意味は持たなかったようである。

 

この「独裁」という言葉が、ほんとうの独裁を正当化してしまったと言える。

実際、エンゲルス以降のマルクス主義者は「プロレタリアート独裁」を抑圧的な意味で解釈した。このことは特にロシア革命以降、真実であった。そこではこの言葉が、ボルシェヴィキの警察国家の正当化するものとなった。

聖書や憲法が権力者に都合の良いように解釈されるのと構造的には同じですね。

中央集権化と労働者の支配?

マルクスは独裁を認めたわけではなかった。しかし、「中央集権化された労働者の政府」というよくわからない概念を前提とした。

単一政党の独裁ではないとしても、マルクスは中央集権国家を提唱した。ロンが言うように、「中央集権化された国家が直接的民主主義的に労働者階級によって運営される……これは矛盾しているし、達成は不可能である」

自明の論理です。

理想は現実に先立つ――唯物論的歴史観

マルクスは共産主義革命の「可能性」を示唆したのではない。「必然的に」「不可避的に」起きるのであって、人類はその変革を避けられないと考えた。その根底にはヘーゲル弁証法がある。

 

「未来の歴史は不可避的に決定している」というイデアリズムは危険である。その理想のもとにはいかなる暴虐も許容されることになる。未来のために現代を犠牲にすることが強いられる。あらゆる抑圧が共産主義化という運命のうちに内包され、正当化されるからである。

 

イデオロギーが先行するとろくなことにならないのはいつの時代も同じであって、「八紘一宇」という理念のもとに動いた日本も同じ。

 

もっとも、「時代を方向づける」ことも重要だと著者は言う。

(マルクスの唯物論的歴史観は危険という見方もあるが)、すべては偶然によって起きるとか、理由がないとか、予測できないと考えることもまた危険である。歴史には方向性がないのだから、すべてが起こりうる。これはリベラルの考え方の基本である。何度も何度も、資本家秋級はその権力を強制されることなく放棄しないことが示されている。しかしリベラルは、まるで歴史は無意味かのように行動している。彼らはこう考える。今回こそ、資本家たちは人民の幸福のために彼らの利益を手放すだろう、と!

歴史的必然はありえないが、歴史から学び、歴史を変えようとする働きかけは重要だと著者は言う。まあ、当然のことである。

終わりに しかしマルクス主義は重要である

マルクスの主張はたしかに権威主義や全体主義傾向を内包している。共産主義を目指した国家が独裁主義に転落したのは、むしろ必然だったとも思える。

 

しかし、マルクスの思想はそれだけではない。

マルクスの働きには違う側面もある。……彼は国家を放棄すべき、抑圧的な階級装置であることに同意した。彼は狭量な独裁政権ではなく、民主的な労働階級の支配を信じていた。

 

アナーキズムとマルクス主義のもっとも重要な共通点は、労働者の階級闘争と、虐げられた労働者たちの潜在的な同盟の重要さを信じることである。これらの人々が世界を救う革命を起こすことのできる人々である。資本主義が経済崩壊や環境的大災害、核戦争を起こす前に革命が起きることは不可避なことではない。しかし、マルクスは資本主義のまさにそういった方向性のなかで、そういった諸力が起きることを実証した。私たちは間に合うだろうか? それはわからない。大事なのは絶対的知識ではなく、コミットメントにあるのである。 

あらゆる思想は時代に支配される

ヨーロッパ人はキリスト教を2000年間信じてきました。しかし、現代ではキリスト教を本気で信じる人はむしろ稀になった。

 

だからといって、キリスト教の教えが間違っているわけではありません。間違っているところはあるが、そこから学べることは多い。

 

マルクス主義についても同様です。私たちはそのなかから優れたものを取りだせばよいだけ。

 

その結果がいくら陰惨なものであっても、マルクスが求めたのはたしかに自由や平等、抑圧のない社会でした。

 

思想は理想化すべきではなく、またいたずらに拒絶すべきでもないといえます。

 

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