齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

資本主義の支配は盤石か――ハンス・ホルツの思想

今の日本では、人々の自由が奪われています。

 

このことに多くの人が同意するでしょう。近年の日本はパソクラシー化していますから。

 

野放しになった政府の腐敗は「中世ジャップランド」などと言われるように、日本独特の現象だと思われがちです。

 

しかしどのような国であっても、中央政府の権力が増大して市民の権力が弱まれば同じような腐敗国家となります。

 

デンマークなどの成功した福祉国家では、一般にどんなに小さな不正や違法行為でも市民の抗議や暴動が起きます。一方で日本では、どんなに大きな不正行為でもうやむやになってしまいます。

 

  

では、そのような社会では支配がますます強力となっていくのでしょうか。それとも、かえって革命の芽を内包するのでしょうか。

 

マルクーゼは、資本主義はその発展とともに人々が消費に依存するようになり支配関係は強化されると考えました。(一次元的人間とはなにか―マルクーゼと資本主義 - 齟齬

 

しかし、ハンス・ホルツというマルクス主義の哲学者はそういったマルクーゼの姿勢を批判しました。

 

資本主義の発展と広がりが、なぜ反逆の好機となるか?

 

半世紀前の本、「ユートピアとアナーキズム―H.マルクーゼの批判的理論の批判のために」からホルツの考えを見ていきましょう。

 

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Hans Heinz Holz (1927 – 2011)

資本主義の操作とその崩壊

合理的社会とその支配

まず、資本主義において人々は「操作」されます。

操作とは、本人にもわからないような形でコントロールすることです。

発達した工業社会の特性は普遍的な操作である。本人自身にもほとんど意識されないような形で、個々人に干渉し、個々人を操作することが可能である。 

工業社会の特徴は、人々が自覚することなく操作されているという点にあります。 

支配を受け入れる人々

非反省的なテクノロジー的合理性が脱漏なく組織されたなかで、人間は支配順応的な諸決定の支配下に置かれている。

 

そして、彼はこの強制を承諾している。現存在の合理的形成によりここに、彼自身の幸福が保証されているというイデオロギー的仮象に屈服しているからである。

現代社会は合理的であるとみなされる社会ですが、その合理性が私たちにとって本当によいものなのか、反省されることはありません。合理性は私たちの生活のすべてを支配し、そのなかで私たちは規定通りに生きるよう「支配」されています。

 

その強制に対して、ひとびとは反抗することなく受け入れます。「自らの幸福は合理性によって成立している」と彼は考えるからです。 

操作された人間は、彼から自立性と思考とを剥奪している諸隷属の体制と自己とを同一化している。 

もっとも操作された被操作者は、操作者と同一化します。これ、よく見るのですが不思議な心理ですよね。

 

搾取されるだけ・利用されるだけの底辺層が、超上流階級の自民党員や皇室に自分を同一化することは、よく見られます。「賢人と馬鹿と奴隷」的な。

市場に好都合な広告、気ばらし的な娯楽、そして政治的プロパガンダが、方法的に、また、内容的に、それ自身で符号し緊密にからみあった意見誘導の編体をつくっており、これが無批判的で訓練されていない思惟のうえに、網のように、投げかけられているのである。 

一見政治的プロパガンダや娯楽、広告は別の目的を持っているように思われますが、操作可能な人間を作りだすという点では一致しています。多方面から大衆に網がかけられ、思考操作が可能となっています。

表面的な自由という迷妄

産業社会では人々の思考はかつてないほど制限されるのですが、その内部でひとびとは自分は自由だと感じます。

個々人は支配体制のインタレストにより前もって規定されている意見の垣根の中に保持され、その内部で、ひとは自分自身で判断し、独立した意見を持つことができると信じているのである。多元性は、ただ、巧みな見せかけとしてあるのみである。

檻の中にいる囚人が自由だと誤認しているようなものです。

 

民主主義は事実に即した態度決定が可能であることに依拠したものであるが、意識操作という条件のもとでは、この可能性はまさに切断されている。

思考が制限され操作される以上、民主主義は機能しません。 

操作は人々の自由を奪う

操作とは、本質的に、また、概念的に、隠蔽された自由剥奪であり、それゆえ、外見的自由のもとでの自由剥奪である。 

操作は自由剥奪です。それでいてなお、本人はむしろ自分を自由だと感じる。これが操作の特質です。 

自由の剥奪とは、だがしかし、支配を樹立すること、あるいは、これを維持することを意味している。したがって、操作は操作する者の支配に奉仕しており、あるいは同じことであるが、操作されている者の抑圧に奉仕している。

 操作は人民の不自由をもたらし、それは支配者の抑圧を実現している。

抑圧とは自己発展の阻止であり、自己とは一人の人間の個的な衝動、要求、および、表現の構造である。

操作は人間の能力や知性、自然な欲求の発展を妨げます。 

抑圧(Unterdrückung)が外見的自由のもとで行われるかぎり、抑制は個体そのものの内部に移行し、[心理的]抑圧(Verdrängung)の性格を持つようになる。

社会が(外見的に)自由なのにも関わらず、不幸や不自由を感じる。そういったとき、人は必然的に外部(社会)を改革するのではなく、自分を改造しようとします。つまり、自己による自己への抑圧。

[心理的]抑圧とは、こうして、現存の支配秩序の利害のために、人間に断念を要求する社会構造の表現である。

 

充足的な社会共同体のうちでの存続が保証されるべく、自我が始原的にもつ社会的にアナーキーな構造を限定することにこの断念が資する限り、ここには文化の正統的な作業が見られる。

人の本来的な性質、本質的に自由を求める性質は制限され、そのことに文化が寄与します。 

操作の生むネトウヨ、精神病者

そしてこれは社会的な不快、つまり、まず最初、個人の心的管理のうちに内的に沈殿し、しだいに蓄積しながら、大衆を捉える緊張において外部に転化し、自発的であると共に、その原因の反省においては理性的である政治的反応を惹き起こすような社会的不快を生む。

 しかしながら、抑圧した感情はなくなることはありません。

……個人の被操作性がたかまり、他方……政治的過激主義の形で爆発する極端に野獣的な攻撃性が増大する。

まさしくネトウヨのみなさんですね。あとはヴィーガンやポリコレのような左翼も同じですが。過激思想の影には操作されることによる心理的抑圧が存在するということです。 

広範な神経症的分裂、および、攻撃性の一般的蓄積とがこれから出てくる結果であり、――これは、したがって、体制に対して全的な矛盾関係に陥入るにちがいない意識状態である。 

攻撃感情、あるいは神経症傾向は抑圧によって生じます。反精神医学的な考え方ですね。(精神医学は資本主義に奉仕する - 齟齬

 

これらの状態はしかし、体制に対する全的な齟齬を生みだすとホルツは考えました。

先進工業社会がこの矛盾を大勢順応的に転化することに成功するならば、この社会の政治的発展傾向は、それゆえ、必然的に、ファシズム的形態にいたらざるを得ないだろう。

もし、攻撃的な感情を完全に操作可能になれば必然的にファシズムとなる。

操作は反抗しがたいものか?

しかし、そんなことが可能だろうか? とホルツは問う。

資本主義社会は、それが人々を自己の状況に関して不明状態におき、一見、すべての人間が幸福であるように社会が見事に機能していると信じ込ませることに成功する限りで、安定しうるだろう……

 

しかし、この社会は、自らが産んだ不自由、それ自身から出てくるもっともひどい人間疎外に対して、人々がまず感じ、次いで、意識するように増々いたるのを阻止しうるであろうか? 

人々は自分が感じる人間疎外や社会の不自由に対して、無自覚でいつづけるのでしょうか。

操作は脱漏なく、また、反抗しがたいものであろうか?

 

たとえ、それが隠蔽されたものであれ、意識の外的操作、個々人の自己発展の方向転換、および、(たんに見せかけのもので、実際には充足の拒否されている)市場順応的な行動要請の体系への隷属は、「不機嫌」、不機嫌的存在一般といった柔軟な形態から重い心的、精神・身体的障害にいたるまでの形をとって現れる、恒常的で、多かれ少なかれ、明白な不快減少を惹き起こす。

これは鬱病やストレス性の疾患を考えればよいです(社会的病としての鬱病 - 齟齬)。

 

いくら「表面的な自由」を与え、操作を可能にしたとしても、本質的な「不機嫌」が消えるわけではない。それはなんらかの形で表出する。

このような不快は、一方では、特殊化していない攻撃性のうちに沈殿し、これは次いで、現存支配体制の利害のためにファッショ的方法で操縦される。

 

しかし、他方、この不快はまた、まったく一般的に、批判を感受するものとなり、したがって、ちょうど、ファシズムの危険が国民の組織のうちに民主的防御勢力の再活動化を惹き起こすように、現存の支配秩序に反対する方向で、攻撃性を社会的に啓蒙し分節化するための培養体となるものである。

抑圧された感情は、ネトウヨや愛国者のようなファシズム傾向を生む。一方で、国民における支配秩序への懐疑や批判への感受性を育むことにもなる。

 

たとえば、ファシズムやナチズムに対する抵抗運動の経験が付加されるところには、操作を克服するための有利な前提があることになる。意識的な構成員や役員が操作による統制の危険を認識し、仲間の蒙を啓き、政治的に活発化し、そして、これを動員するような組合運動は、全面的で拒絶不可能な抑圧に対する決定的な防壁となることができる。

反ファシズムや反全体主義への抵抗の経験があるところでは、ひとびとが啓蒙され、下からの政治運動が活発となることにより、抑圧に対する防御が可能です。

たとえば、……スト権に対する攻撃は、世論のあらゆる操作にもかかわらず、関係者によってその正体が認識される。このような支配拡大の試みは抵抗をよびおこし、民主主義的諸権利の更新、確保、および成就への願望を呼びさます。

市民への支配が強力になるほど、それはあからさまとなります。当然、世論を操作して隠蔽するわけですが限界があります。「ホワイトカラー・エグゼンプション」が「残業代をゼロにする法案」であることはだれの目にも明らかでした。

どこか一ヶ所で異物操作がきかなくなり、個体に批判的洞察が要求されるとか、自己責任的な態度決定が期せられるようになると、操作はすでに自己崩壊のうちに移行している。

一部の人間が批判精神をもったり、主体的に活動するようになると強力な管理社会に崩壊の兆しが見えてきます。

ところで、いかなる社会といえども、そして普遍的に操作されている社会でさえ、批判的思惟のためのこうした活動空間なしにすますことはない。

 

なぜなら、産業の進歩と市場の能率よい運行とは、実際、学校や大学で養成されねばならぬ新しい批判的知識人を不断に必要としているからである。

どんなに抑圧的な社会でも大学は存在します。大学知や創造性がなければ産業や技術が進歩しないからです。

 

創造性のジレンマ――これ、日本ではかなり前から頭の痛い問題なんですよね。産業を発展するためには人々にイノベーションを可能にする必要がある。しかし人々に自由をもたらせば階級秩序が自覚され、批判され、失われる可能性がある。

 

前に、「資本主義が人々を労働に縛り付けることで体制維持できるのであれば大学の存在が説明できない」というようなコメントをいただきましたが、大学では限定的に自由思想が許されるわけです。

 

もちろん、自由な思想が許される場所は「左翼思想」の温床でもありますから、政府は締めつけを強化します。京都大学では「公安警察が学生に捕まる」という事件があり、最近でも人文系学部に対する削減案が問題となりました。

 

脱線しました。話を戻しましょう。

 

諸々の隷属のうえにたてられた経済秩序のうちには、こうした隷属の非合理性と抑圧性とを従順に受け入れることなく、これに反抗する人間が常に存在するだろう。このような潜在的不満を明示する非・体制迎合的なジャーナリズム、文学、および、芸術の意味を軽視することができない。

ホルツはジャーナリズムや文学、芸術といった比較的自由な領域における反逆者に期待を見出しているようです。

抑圧が意識的に経験されないためには、ひとつの自由の活動空間を許容しておかねばならぬことが操作の本質に含まれている。この活動空間を自由のたんなる外見にとどめておこうといかに努めてみても、この空間が、求められている総体的規制に対する矛盾であることをやめはしない。

資本主義は「自由な社会だ」というタテマエのために、自由な場を実際に用意しなければならない。

 

そこでは、いくら本質的な自由を除去しようと努力しても、 やはり自由の萌芽を完全に抑制することはできない。

資本主義体制が生み出す内的諸矛盾のうちに、政治的啓蒙を行うための出発点が存在している。かかる啓蒙は、操作が間隙を許し、あるいは、密でなくなるところに切り込まなければならない。ついには、網全体が引き裂かれるのである。

まとめ ホルツの思想の限界

資本主義は人々を操作することによって可能になります。

 

人々の完全な発展を阻害しながら、同時に「自分は自由だ」と思わせる。資本主義社会の操作が不完全なのは、その人心操作において自由な領域をどうしても必要とすることです。

 

完全に人々を操作してしまえば、少数の自覚者が表れ、彼らが他者を啓蒙してゆくことになり、その「網」は破れ、崩壊することになります。

 

一方で、表面的にであれ「自由な場」を許容することは、同様の反逆者を生みだすことになる。

 

抑圧を強めようと、弱めようと、反逆者が現れる可能性があります。

 

したがって、マルクーゼの考えたように諸個人が完全に管理され操作されるような社会がやってくるのではなく、資本主義はいずれ崩壊するだろう――というのがホルツの考え方でした。

 

あなたはどう思われますか?

 

私はホルツの主張には限界があると思います。まず、彼が同著を書いて半世紀、資本主義は崩壊していません。

 

そして、彼が希望を見出した「芸術」「文学」「ジャーナリズム」の影響力は、当時と比べて現代ではどれほど弱まっているでしょうか?

 

資本主義、あるいは資本主義の操作は、ホルツの予想に反し、現代ではかつてないほど強力になっていると考えます。

 

 一方でホルツの主張には興味深い点もあります。支配が強まれば、同時に反逆者も増え続けるということです。

 

現代日本は「網」が強力に張り巡らされ、ネトウヨなどの大勢順応者が増産されています。しかし同時に、この国はおかしいのではないか、もっと自由な社会が可能なのではないか、と思う人が増えています(私のブログは日本嫌いの人がたくさんきます)。

 

現実に私がそういった思想変化を起こした反逆者の一人で、抑圧的な日本の学校や企業生活を経験したからこそアナーキストになった経緯があります。

 

今後、日本社会は転換期に向かうような気がしています。現代日本はあまりにもクソですが、闇の中にも光があるのかもしれません。