齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

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天才は物忘れが激しい?

忘却は知性です。

 

私たちは忘れる生き物です。

 

鍵をどこに置いたかを忘れた。

スーパーで何を買いに来たか忘れた。

今会話している人の名前が思い出せない。

 

うんざりですね。

自分がとんでもないバカに思えてきます。

 

しかし、忘却はそう悪いものでもないようです。

 

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アインシュタインがしばしばした舌出しは、物忘れをしたときの「てへぺろ」とも言われる(筆者加工)

忘却の能動的な役割

シカゴ・トリビューンの記事「Study: Being forgetful might actually mean you're smarter - Chicago Tribune」を見ていきます。

 

トロント大学のPaul FranklandとBlake Richardsは、忘却が私たちの行動決定において重要な働きをしていることを見出しました。私たちの神経系は、忘却することによって何を思い出すかを選択することが可能なのです。

 

「記憶のゴールは、秒単位のすべての出来事を記録することではない。むしろ、記憶のゴールは行動決定にあるのだ。したがってすぐに消える記憶は、永続的な記憶と同じくらい記憶のシステムに重要である」

 

知的な行動決定においてはすべての情報が手元にある必要はなく、もっとも価値のある情報があればよい。このためには、記憶の宮殿を最新の情報のために掃除しておく必要がある。私たちの脳はこのことを、既存の記憶を上書きする海馬に新しいニューロンを生成することによって行っている。

 

私たちが顧客の名前を忘れたり、以前した仕事の内容を忘れたときは、脳がそれを忘れても構わないと認識したことになる。適度な忘却は健康な脳の証である。私たちの頭脳は、過去の細かいことにとらわれて行動決定が阻害されないようにしている。そのかわりに脳は一般化のプロセスを行う。

 

……というようなことが書かれています。

 

たしかに、細かい部分を鮮明に覚えている人ってあまり賢い人が少ないかもしれません。木を見て森を見ずです。

 

重要なことは、忘却は知識の「一般化generalization」をもたらすことです。

 

一般的な知識とは、アインシュタインのE=mc^2のように簡潔で全般的な知識のことです。

 

アナーキズムはその一例といえます。アナーキストは、国家はあのとき悪いことをした、あのとき人民に背いた、ということをいちいち覚えていません。「国家は悪」とすでに一般化しているために、細かい事例を覚える必要がないのです。

 

ちなみに海馬の新しいニューロンを生みだすためにはジョギング、ウォーキング、スイミングなどの有酸素運動が良いようです。 

ニーチェと忘却 

百年前の哲学に時代をさかのぼります。忘却に積極的な価値を見出した哲学者としてフリードリヒ・ニーチェがいます。

 

古来、プラトンの時代から、忘却は悪だとみなされてきました。しかし、ニーチェにとって忘却は能動的でポジティブな行為です。

 

「忘却は人々が表面的に信じているように惰性なのではなく、むしろ超越への能動的な能力であり、そのもっとも強い意味での肯定的である(拙訳)」と「この人を見よ」で書いています。

 

忘却は、私たちを麻痺させるような過剰な歴史的感覚を治療します。私たちは忘却によって歴史の外に生きることが可能になるのです。

 

ニーチェにとって歴史は、ヘーゲルやマルクスが考えたように合理的なものではなく、また一元的なものではありません。彼にとって歴史は集団的であるとともに個人的であり、人々が自由に創造するものなのです。

 

忘却がなければ楽しく生きることはできません。

 

ニーチェは「反時代的考察」において、雌牛を例にとりあげています。雌牛は記憶することができないが、退屈することも苦しむこともない。 忘却は単に記憶の「喪失」ではなく、自由への力を与えるものだと彼は考えています。

 

まさに忘却は幸福な人生に必須の能力といえそうです。 

まとめ 忘却は自由

現実世界では、より多く記憶することが絶対善のように扱われています。

 

学校生活では「記憶」が非常に重要だとみなされます。日本の大学受験は暗記大会です。中村修二氏に言わせれば「ウルトラクイズ」。

 

しかしながら、忘却には能動的な価値があります。これは意外な事実ですが、100年前にニーチェが書いており、現代科学で支持されていることです。

 

忘却は楽しく、健康で、自由に生きるために必須の能力です。 

  

物忘れをすると人に怒られることがありますが、悪く言われる筋合いはありません。

 

結局、必要なことなら覚え、重要でないことは忘れてしまうのが健康な人間であり、賢明な人間だからです。

 

「どうしてそんなに大事なことをすぐ忘れるのか」と人は言います。

「私には大事ではなかったから」で、終わり。

 

私たちは与えられたことを覚えるだけのポンコツ・ロボットではありません。そんなことはUSBメモリーに任せればいい。

 

必要なことは覚え、不必要なことは忘れる。これが健康であり、真の知性なのです。