齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

子どもは現代社会の奴隷である

抑圧的な社会では、必ず子どもたちが犠牲になる

 

現代の子どもたちは奴隷です。

 

彼らは本質的に未熟で劣った存在とされ、教育や指導が必要な存在だとみなされる。

  • 子どもたちは学校という名前のついた監獄に閉じ込められることが強制されます。
  • 子どもは親を選ぶことができず、一人で生活することも許されず、家庭に閉じ込められます。

子どもは教師に、親に支配される。自由を奪われ、管理され、教義を叩き込まれる。そして自由を、発展を、成長を、自己決定を奪われます。

 

このことは、実は奴隷と変わりません。 

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To This Day Project - Shane Koyczan - YouTubeより

 

現代社会の子どもは奴隷である

Slingshotの記事「Youth Liberation」より引用していきます。強調は私による。

 

ちなみにこのサイトは著作権フリーで、「望むものは何でも借用せよ。私たちはそうしたBorrow whatever you want. We did.」とあります。クールですね。 

老人と子どもに対する年齢差別

子どもや老人をどのように扱うかを見れば、社会について大部分を知ることができる。

 

私たちの社会では子供と老人はしばしば他の年齢集団に隔絶され、制度的環境に押し込められる。子どもたちは学校に、老人たちは介護施設に。

 

子どもたちはシステムの洗脳を受け、老人たちは一度彼らの生産能力や資本消費が衰えれば、忘れ去られフェードアウトさせられる。

子どもと老人は社会から隔絶されます。

 

この記述を読んで思ったのですが、フーコーの指摘する監獄・精神病院・学校のような国家装置に加えて「介護施設」を加えても良いかもしれません。

年上の人々による支配――ジェロントクラシー 

……エイジズムは、単に年齢に基づく人々の偏見と差別である。これはたしかに資本主義や国家の問題ほど大きくはないかもしれない。そのことには同意する。

 

若者の自由を考えるとき、「エイジズム」という言葉は的を外す。ジェロントクラシー、または年上の人々によるシステマティックな子どもへの支配が私の焦点をあてるところである。

ジェロントクラシーは耳慣れない言葉ですが、老人支配とも訳されます(gerontはギリシャ語で「老人」)。

 

エイジズム――年齢による差別や偏見よりも広範な支配関係が問題であることが強調されています。

大人は完璧な存在か

つねに念頭に置くべき重要なことのひとつは子どもたちが人間であるということだ。他のすべての私たちのように。人は一定の年齢になって突然人間となるのはない――人は人間として生まれる。

 

したがって子どもたちは学び、成長し、発展し、自らに合う生き方を目指すような、人間の生まれつきの能力を持っている。子どもたちはすべてを理解しているわけではないし、間違いを犯し、助けや支援が必要だが、このことはすべての人間に言えることである。

 

大人がすべてを理解し、過ちを犯さず、他者の助けや支援を必要しない一方、子どもたちがまったくその反対であるということはしばしば暗黙裡に語られることである。

 

しかし、このことは子どもたちの上に大人の社会ヒエラルキーを構築するために必要な、歪められた現実である。

子どもを無能な存在とみなすことは、大人にとっても息苦しい社会を生みだします。

 

子どもは無能であり、独立して生きていけない存在である。

そのためには、対概念としての大人が万能であり、だれにも助けを求めてはならない存在である必要がある。

 

実際には、大人はだれしも困難なときには他人を必要とします。「大人は助けを求めてはいけない」というスティグマは鬱病と自殺をもたらします。

社会の奴隷としての子ども 

したがって、このように呼ぼう――子どもたちはこの社会の奴隷である。 

 

子どもたちは両親や国家が彼らを見つけだし、引き戻す恐怖なしに自由に解放されることがない。

 

子どもたちは強制収容所に行くことを強要される(私たちはそれを学校と呼ぶ)。子どもたちは医療を自分の意志で受けたり拒絶することができない――大人たちがそれを決めなくてはならない。子どもたちは自らの時間、肉体、活動、行動や選択について、発言権を持たない――両親やその他の大人が決めるのである。

 

これは奴隷制である。純粋な、システマティックな、率直な奴隷制である。広範な暴力の行使、暴力の恐怖、そして感情的な操作、脅迫、洗脳に基づく奴隷制である。

子どもへの支配は奴隷制である。

私はこの記述に大いに同意するのです。 

 

学校は悪です。ピーター・グレイの言うように「学校は監獄である」。

 

学校や家庭は両親や教師を敬うことを強調し、特に日本では先輩後輩システムを再生産するために機能します。すべての近代国家は学校を持ちますが、それは「服従」を叩き込むためです。

子どもに服従を叩き込む社会システム

子どもたちの精神は繰り返し権威に打ち負かされる。

 

とくに大人の権威によって、子どもたちの意志を砕き、個人性、自発性、創造性、好奇心や自律性による快適さを打ち壊すために。

 

子どもたちは繰り返しさまざまな種類の親の権威、学校権威、国家組織、そして子どもたちを形づくる大衆文化に直面する。それらは子どもたちを命令にしたがって飛び跳ね、命令にしたがい、言われたことをするようにする。

子どもは子どもっぽくなければならない――元気よく挨拶をし、飛び跳ね、愚鈍で、幼稚な遊びに没頭しなければならない。

 

早熟な子ども、批判精神を持つ子ども、創造性を持つ子どもは、社会や大人たちによって意識的・無意識的に抑圧されます。

 

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抑圧的な社会では「子どものふりをした子ども」が増える。突然叫びだしたり、大声で泣き叫ぶ子どもが増えます。

子どもたちへの抑圧は文明の抑圧である

私の考えでは、子どもたちの支配は、若い人間のユニークな経験に対する自主性、尊敬、尊厳を全く欠く単なるホラーというだけではなく、社会的システムに必須の部分である。つまり、支配、搾取、管理、疎外――文明それ自体の。

 

子どもたちへの支配は人々の意志を打ち砕き、権威主義的なプログラミングを挿入し、彼らは年をとったときに国家、資本主義、ジェノントクラシイのような機構を再生産する。 

文明は支配であり、搾取であり、管理であり、疎外です。あまり知られていない事実ですが。

 

私はイヴァン・イリッチの思想が好きです。「社会が学校を再生産するのではない。学校が社会を再生産するのだ」という考えです。

 

また、彼は「学校は新しい世界宗教となっている」と言います。あらゆる近代国家は学校を持ちますが、それは宗教のような洗脳装置の役割を持っているのです。

 

子どもを人間扱いするという革命

子どもたちへの支配は私たちの身の回りで行われている現実生活の奴隷制である。

 

それはアナーキーや本当の自由の完全な反作用としての根本的な権威と支配関係を含む、国家や資本主義、その他の管理機構を再強化し、再生産する。

 

もし私たちがこの不愉快な支配とヒエラルキーの世界システムを崩壊させようと真剣に考えるのであれば、私たちはそれが何であろうと攻撃しなければならない――このことは、伝統的な「政治的」領域だけでなく、私たちの関係性、生活、ふるまいやメンタリティも含まれる。

子どもを人間扱いすること。それは反システム的な政治活動ともいえます。 

まとめ 現代奴隷としての子ども

子どもは知能や判断力で劣るから、大人によって導かなければならない。

 

現代社会ではこのことが当然のようにみなされています。

  

これは奴隷制とまったく同じ構造です。

 

南部アメリカでは「黒人は知能や判断力で劣るから白人によって導かなければならない」とされ、奴隷制はむしろ黒人にとって有益であり合理的なものとみなされていました。 同じことはイギリス領のインドや日本領の韓国でも存在した。

補遺 狩猟採集民は子どもをどう扱ったか

「子どもはいつの時代も抑圧されていた」と考える人がいるかもしれません。 しかし、プリミティブな社会――狩猟採集社会では一般に子どもの行動を妨げることはよくないとされ、子どもには自由が与えられた。

 

たとえば赤ん坊が焚き火やナイフに触れそうになっても親は止めません。自分でそういったことを学ぶことが重要だと考えられているからです。

 

また、北方のある狩猟採集民族では「子どもが家庭を選ぶ」こともできました。一定の年齢になると子どもはだれが親かに関わらず部族内の自分の好きな家に住むことを選択できます。これは適応戦略とされていますが、現代の価値観からすると非常に特異に思えます。

 

こういった狩猟採集社会では、いじめや自殺、メンタル・イルネス、幼児虐待などという悲惨な文明の象徴はないのでした(乳児死亡率は非常に高いのですが)。

私たちは相互の尊敬、自律性、そして自由な関係に基づく関係を求め、このような恐ろしい関係性を批判し攻撃しなければならない。

と著者は言います。

 

私たちは不自然で抑圧的、支配的な子どもとの関係を見直すべきだといえます。

参考:TCS アナーキーな子育て - 齟齬