齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

自由とは反抗する勇気である――ラスキの思想

自由の要諦は、究極において常に反抗する勇気である

 

ハロルド・ジョセフ・ラスキ(1893~1950)

 

多元的国家論を唱えた英国の政治学者。

ロンドン大学教授で、労働党の執行委員長を長く務めた。

 

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個人的にはノータッチだったのだけど、図書館で著書「近代国家における自由」を見つけてタイトル借り。

 

 

内容はタイトル通りおもしろく、理解しやすく一気に読んでしまった。

 

同著の気になったところをまとめていきます。引用部の強調はすべて私によるものです。末尾の数字はページですが、メモを忘れた箇所もあります……。 

 

自由とは何か

まず私たちにとって自由とは何でしょうか?

ラスキは以下のように述べています。

 

まず第一に私は、自由とは本質的に拘束の欠如であると論ずる。自由は拡張発展しようとする力、つまり、個人が外部より禁圧されることなく、それぞれ自らの欲する生活の仕方を択ぶことを意味している。

 

……人々はおのれが認めた領域で、その生活を外的規律によって妨げられず、かつ、何らの挫折感を抱かぬときに自由である。

自由とは各々が外的規範に従うのではなく、自分の望むライフスタイルを実現できることだとラスキは言います。

理想主義を否定せよ

ラスキは理想主義を完全に否定します。

真の自由の理論は理想主義の前提の全面的否定の上に樹立される。……真の自我とは、私の存在と行動のすべてである。

理想主義とは自分以外の対象に中心を置くことです。それは神や国家、会社や家族でもいい。

 

理想主義を拒絶し、自分の経験と感性によって生きることが自由だとラスキは言う。自分を中心軸に置くことが自由と。実存主義的です。

 

より具体的な記述を見てみます。

一般に、自分自身の限界は、自分自身を実験台として知るのでなければならない。私は、他人の実験からえられた基準や習慣に、自己の行動を適合させながら一生を送ることはできない。……彼らの生活規則を、私にもまたあてはめようと主張することは、通常、私の人格を毀損することに外ならない。182

すべて自己責任によって、手探りで自分の生き方を見つけだすのが自由だとラスキは考えます。

 

各々に適した人生は違います。一見非効率的だったり、逸脱しているように見えることはありますが、それを社会の側で干渉してはいけない。いわゆる「レールにはまった人生」を強制することは、人格の毀損だとラスキは考えています。 

生きたいように生きると孤立する

自由に生きる人、つまり自分の意志に従う人は、しばしば社会的に孤立することになります。

 

お前の生き方は間違っている、非常識だ、などと言われます。しかし、自分の経験に従って生きることが市民の始まりだ、とラスキは言います。

人間は、自らを貶めてまで他人と一つになる個性の滅却を頑として拒否するものである。彼の孤立性は決して消滅させうるものではない。実に、それは人間の究極的現実で、これを基礎として初めて市民の義務が打ち建てられるのである。人は自らの孤立がもたらす結果を放棄しえない。つまり、自己の経験は自己だけのものであり、この経験を基礎として樹立された意志もまた独自なものだというのが孤立の結果である。自らの経験を捨てて他人のそれに従属するならば、それは人格の放棄である。自己の意志が他人の意志によって定まるならば、もはや自らの主人ではありえない。もはや自らの主人たることをやめた人は、いかなる意味でも自由とは考えられない。 

他人がなんと言おうと、自分の経験に従って生きることが自由であるとラスキは考えているわけです。「大衆」は市民でありえないとラスキは言う。

 

自由な「雰囲気」の重要性

私は社会組織がどんな形をとるにせよ、自由の本質は、人々の間にある無形の雰囲気の表れであると結論したい。自由とは大切な事柄に関して絶えずイニシアティブをとる機会があるということ、いわば、自分を実験台として他人と違った考え方や行動をなしても、それによって自らの幸福を脅かされることがないということである。つまり、社会的制裁を受けることなく自分の性質にあった行動のプランを建てることができなければ自由とはいえない。72

 

集団と違った行動をしても、他者から侵害を受けない。

 

そういった「雰囲気」があることが重要だとラスキは言っています。

 

この雰囲気という表現、独特でおもしろいです。  各々が固有の生活をすることが許容されるような雰囲気は、ファシズム社会と対極と言えます。

資本主義と自由

ラスキは資本主義に批判的です。

 

経済的不平等が生まれるところでは自由は実現しないと考えています。以下の記述は現代社会にもぴったりあてはまります。 

労働者の目に全く不正としか映らぬような条件のもとで労働すべきだと唱えるのは、明らかに自由の許しがたい否定である。この条件下で働くことを嫌う人は他の職を探せばいいといった議論は、現代社会では、ますます通用力を失いつつある。いずれの社会でも、随時、別の職業を選びとりうる人の数は著しく少ない。弁護士からジャーナリストへの早変わりはできても、電気技師から弁護士ヘはすぐになれるものではない。……不正をかこちつつ人を働かせてみたところで、結局のところ社会には何の益にもならない。挫折感は円満な人格を毒する。167

というわけで人々の大半は、やりたくない長時間低賃金労働を強いられる。

 

しばしば「挫折感」という言葉が現れるのですが、自分の人生や社会をコントロールできない、自分は無力だ、価値がないといった感覚のことです。その行き着くところは鬱病でしょうね。

 

ラスキはまた、生産手段の私有の廃止という共産主義的な主張をしています。

事実を直視しよう。生産手段の私有は廃棄されねばならぬ。それと共に社会の階級構造、およびそれによって維持される所有制度にまつわる特権もあげて廃棄されねばならぬ。……もしわれわれがこの説得に成功するならば、実に人類史上最も有益な革命を成就したことになるだろう。p38

ラスキは共産主義に入れ込んだので当然といえば当然ですが、資本主義下では自由は不可能だと考えているようです。  

不平等と大衆の痴愚化

職場や家庭、学校などで悩める個人のほとんどは、マクロに世界の権力構造をとらえることができません。 

 

自分の苦しみが社会的要因によるものだということにほとんどの人が無自覚です。 

これらの人々の弱点は、自由の敵の仮面を見破ることができないということである。彼らは服従にならされてきた。……世界の経済的相互依存関係、資本主義における景気循環の必然的関係、資本主義組織が失業者群を必要とすること、……彼らの大半はこの世に生まれて世界を動かす諸力のどれ一つもべっ見することなく終るのである。(p35-36)

不平等な社会では衆人を無知にします。あたりまえですが奴隷に批判精神を身に着けさせようとする主人はいません。

 

不平等な社会≒抑圧的な社会で生きる人々は、しだいに考えることをやめてしまう。

抑圧の結果は、少数の人々を自暴自棄に逐いやるとともに、大衆を政治問題に対して全く不感症としてしまう。自らの経験に則して考えることを禁ぜられた人々は、やがておよそ考えるということを全くやめてしまう。考えることをやめた人々は、同時に、およそ本当の意味での市民であることをやめてしまうのである。彼らは、いささかも吟味することなくただ命ぜられるままに服従する無気力な命令の受領者と化する。そして、彼らの無気力は、権力者の行動に誤った自信の光彩をそえ、沈黙は同意と取り違えられる。多分、これこそヒトラー主義の最も重要な教訓であろう。P128

 ファシズムは無思考と無責任によって実現します。

 

大量殺人を行うのはつねに「普通の人」ですが、そのことが書かれている。

 

そして不平等な社会は、ひとびとは互いに冷淡に、不寛容になるよう導きます。 

今日においてもまた、あらゆる自由を全うする秘訣は依然勇気であることには変わりがない……不正に直面しつつ沈黙を守る人は何時でも自由の喪失を甘受する人である。自分の知ったことではないといえばいうほど、ますます簡単に扇動家の仕事を助けることになる。……冷淡や無力感は、自由にとって最も恐るべき敵である。

個性の発育は抑圧される

不平等な社会は個性を阻害します。

 

日本でいえば、従順で奴隷的な「日本人らしい日本人」であることが求められます。

世論の無知を嘆く人々は、不平等な社会では個性の発現を抑止する必要があるということをしばしば忘れがちである。およそ個性発現の試みは、社会的条件の平等化の試みでもある。つまり、それは自分自身を重んじさせようとする試みであり、毅然たる自己主張であり、自己の主張と他人の主張との平等なとりあつかいを要求する権利の強調である。自由の権利を承認することは、社会の基礎をなす不平等の正当性を否定することに外ならない。

また、教育それ自体には肯定的なラスキですが、以下のようなピリリとした文章も書いています。

今日、教育とは、文字によって欺かれることを人々に教える術だと定義しても、決して不当ではなかろう。こうした欺まんによって利益をうる人々は、目下のところ、社会の支配者である。205

これ、真理に近い言葉だと思います。 

 

 

以上見てきたように、不平等な社会においては以下のような人間が大量に生産されます。

  • 自らの不幸の原因となる本当の敵を見つけられない
  • 無思考で冷淡な
  • 無個性的な人々

これ、まさしく「大衆」の姿です。

  

しかしながら、私たちはドグマから解放されなければなりません。そうしなければ幸福はありえない。

幸福は、虚心に、事実に接近しうるということに掛っている。しかもその事実は、自己の利益のために特に事実をまげるというようなことをしない不偏不党の人々によって提供されたものでなければならない。これ以外のものはすべて、精神をドグマの牢獄につなぐ。そうした精神は、ドグマの働く狭苦しい領域を脱しようとしないかぎり、絶えず、ドグマの影響下におかれる。 

自由とは反抗する勇気である

支配構造は完璧なように見えますが、大衆がいつまでも我慢していることはない、とラスキは考えます。抑圧は長続きしません。

重大な経済的条件の不平等が存在する社会では、同意の要素が有効に働く見込みがない……人々は、同意の欠如に対して抗議することを永く延ばすかも知れぬ。どのような害悪も、絶えず経験させられると、ついにはそれに慣れてしまうものである。……しかし、永久に害悪に慣れてしまうことは、決してありえない。ちょうど童話の中に出てくる子供のように、早晩何人かが、王様は本当に裸なのだと指摘せずにはおかない。228

民衆への抑圧は長続きしない

……現代の視点では、少し楽観的ともいえます。 

自己の本質を主張しようとする人間の衝動は、いかなる抑圧の企図をも打ち破って進むことを革新できる……奴隷すら他日自由となった我が身を夢見るだろう。……人はいかに無知でも、豊富と安定とを可能にする社会での貧困と失業のパラドックスをいつまでも忍ぶものではない。それは自由のために信じていいことである。

 

自由のために戦うわれわれには少なくとも以下のことはたしかである。人間の奉仕する理想の中で独り自由のみが、切なる要求に応じて絶つ民衆のまもりとして英雄たるの資質を付与するものだということである。p50 

 

自由とは反抗する勇気である。これ、あまり言う人は少ないですが、ほんとうだと思います。自己を抑圧して権威に従う人は不自由に生きるしかありません。

支配層と戦う

憲法ではたしかに私たちの自由は明記されていますが、それを守らせるためには人民の決意が必要だとラスキは言います。 

権利章典の実効性は一にかかってそれを守り抜く人民の決意にある。その力は、自由を求める民意に正比例する。……危機にさいしては、権力の行使に当る人々を決して信用する事ができない。権力の乱用が、間髪を入れず確実に処罰されてはじめて、われわれの支配者は自由の要求に留意するであろう。p90

そして自分の経験と合致しない不当に思われる法律に対しても反抗すべきだとしています。

法律とは人間の欲求を満たそうとする規則である……法律を自らの経験に照らして是認する。さもなければ、法律の権威は常に疑わしい。それというのも、人々の経験と矛盾した法律は、彼らの人格の成長を頓挫させるものとして考えられるからである。そのような規律を甘受することは、自由を捨てることであろう。

 

権力者は自らの特権を保持しようとします。どれだけ聡明であっても、どれだけ温情のある権力者であっても、権力それ自体を手放そうとはしません。それが権力の特性だといえます(権力は悪である - 齟齬)。

平等とは、権力の行使、および、それに伴う全ての快楽と訣別することである。平等とは、支配者の欲望によって生産目的が規定されず、支配者の基準によって考慮の対象が決められず、社会的諸力の均衡を決定する支配の権利がもはや認められないことを意味する。実に、平等とは、支配者の生活様式によって彼らの骨の髄にまでしみわたっている人生哲学の否定である。こうした否定に対して支配者が叩くのは、むしろ当然だろう……

 

歴史上、権力を所有する人々が自発的にその特権を放棄した例しはない。権力の所有者は、道理と正義の実現を唱えるが、しかし,それは、彼らの道理であり、彼らの正義である。212

 

「歴史上、権力を所有する人々が自発的にその特権を放棄した例しはない」。これ、ほんとうだと思います。下位層の揺り動かしがなければ、特権は決してなくなりません。

自由とは、危機にさいして、力の要求に毅然と抵抗する勇気である……このゆえにまた、自由は無秩序をも辞せぬ原理である。自由は権力者に対して一つの脅威であり、経験の禁圧は必ずや否定されずにはおかないと警告するのである。261 

権力者につねに戦う用意があると示すことによって、自由で平等な社会が可能だということです。 

共に戦う重要性

自由とは、各々が各々の自由について平等に考えるとき可能であるとラスキは言います。

われわれの機構および制度がどうあろうとも、自由の実現と維持は、人々がそれについてほぼ平等な関心を持つ社会においてこそ望みうるというのが私の結論である。

たとえば派遣労働者や出稼ぎ労働者が苦しもうが知ったことじゃない、といような不平等な考え方は、社会の不自由を増大させるということです。

 

自由を求める人々がともに戦うことが重要だとラスキはいいます。それこそが「自由の真髄」であるとも。

 

現実の個人は孤立的存在ではない。彼は志を同じくする人々と提携して、自分たちの意見を採用するように社会を説得し、時としては、強制するのである。こうして、もろもろの結社が近代社会において演ずる重要な役割は、ここで改めて強調するまでもない。……個人が何らの拘束なく、自由に同志を糾合して利害関心を同じくする領域で協働の行動に出ることは、まさに自由の真髄をなすものといえよう。145 

総論 自由と反抗

「近代国家における自由」は以下のように締めくくられます。

理性に対する尊敬のあるところ、そこにまた自由に対する尊敬がある。自由に対する尊敬あってはじめて人生は真に美わしきものとなりうるのである。266

 

おおむね彼の意見には賛同できるのですが、「不平等なき国家」が実現可能なのかという点に疑問を持ちます。

国家の諸目的も人間的な目的であることは他と変わりがない。すなわち、国家はその構成員の幸福に対する一つの手段に過ぎない。251

これは国家多元論の要点だとは思うのですが。国家と人間はやはり違うと思います。人間は平等を求め、国家は不平等を求めるというのがアナーキズムの考えです。

 

いずれにせよ、市民による支配層に対する不断の監視によって、相対的に平等な社会は可能だといえます。

 

ラスキの言説はシンプルです。自由とは勝ち取るものです。 かつてそうだったし、いまもそうであり、これからもそうです。 

 

不平等を容認すれば私たちの自由はますます奪われていきます。

 

平等と自由を勝ち取る唯一の方法は、団結して戦うこと。それ以外にはないようです。