齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

テッド・カジンスキーの思想について

「慎重な理性に基づいた巧妙に書かれた論文である… もしこれが狂人によって書かれたものならば、多くの政治哲学者――ルソー、トマス・ペイン、マルクス――がより正気であるとは言えなくなる」(政治家学者James  Q Wilson氏 1988年、ユナボマー・マニフェストに対し)

 

アナーキスト・ライブラリーに新しいユナボマーに関する投稿があったので紹介します。ノルウェーの哲学者であるOle Martin Moen氏の「ユナボマーの倫理(The ethics of Unabomber)」です。

 

どちらかといえば、テッドの主張に対する批判的な考察です。ただ、テッドへの批判よりも、テッドの主張のまとめが優れているのでそちらを中心に書いていきたいと思います。 

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1998年、監獄にて

ユナボマーことテッド・カジンスキーとは

導入部のテッド・カジンスキーの説明がよくまとまっていたので紹介します。

 

1978年から1995年にかけて、テッド・カジンスキーは手紙爆弾により、技術産業における科学者や指導者を中心とした二十三人を負傷させ、三人を殺した。カジンスキーはバークレー校の数学助教だったが、産業文明に嫌気がさすようになり、大学の地位を拒絶し、モンタナ州の森のなかの小屋に移り住んで一人で暮らした。彼が特定されるまで、FBIは手紙爆弾の犯人を「ユナボマー」と名付けた。これはのちにカジンスキーの名として広く知られることになるが、「大学と空港の爆弾犯University and Airline Bomber」からきている。1995年、カジンスキーは出版されなければ犯行が激化すると脅し、

「FC」の名義で、35000語のマニフェスト「産業社会とその未来」をニューヨークタイムスとワシントンポストに送りつけた。FBIは犯人特定の助けになることに望みをかけ、マニフェストの出版をうながした。マニフェストが公表された後、文体が似ていることから、それを読んだカジンスキーの家族によって警察に通報され、彼は逮捕された。


カジンスキーは現在もなお、厳重な刑務所のなかで22年間生き続けている。

 

「テロに屈した」として大批判にあった二大メディアですが、FBIの指示があったんですね。

 

ちなみに彼はまだ著述を続けており、2016年に「反技術革命ーーなぜ、そしてどうやって(Anti-Tech Revolution; Why and How)」というモノグラフを公開しています。

 

テッドの主張とはなにか

同様に、テッドの主張についてもよくまとまった記述があるので紹介します。

 

現代人は自分で管理できない生を生きている

私たちは技術によって「本来の自然的な生き方が不可能になっている」とテッドは主張しています。

 

カジンスキーの中心的な主張は、技術が私たちの生を「人類が進化してきた条件とまったく異なる条件」に置くということである。私たちは人口過密の中に生き、野生の自然から離れ、急速な社会の変化が、私たちが栄えるために進化させてきた親密なコミュニティを破壊した。

 

そして、私たちは自らの生活を自らでコントロールすることが不可能になっています。

 

原始的な人々は肉食動物や飢えの脅威にさらされながら、自衛のために戦い、食料を求めて旅をすることができた。

 

現代の人々はその一方、自らの手に負えない多くの脅威にさらされている。原子力事故、食品の発がん性物質、環境汚染、戦争、税率の上昇、プライバシー侵害、巨大組織、超国家的な社会や経済現象が、人間の生き方を持続困難にする。

 

私たちは個人や小集団のコントロールを超えた「技術的な問題」に直面しています。

 

充足感を得るための「代替行動」

技術文明においては、私たちは自らの人生を管理下に置くことができません。

 

それでも人間は自らの行動によって生命を維持していると「感じる」必要があるとテッドは言います。

 

彼はそのために行う行動を「代替活動irrigate activities」と呼んでいます。これ、テッドのおもしろい心理学的概念です。

 

代替活動は私たちが生物として本能的に求める行動ではなく、「充足感」を求めるために行う行動です。

 

テッドは富を追い求める現代人を典型的な例としてあげています。本質的に、私たちには過剰な富は必要ありません。しかし、必要なのだと思い込むことによって継続的な努力が必要な目標を創造することができます。私たちは自分自身をごまかしながら自分が人生をコントロールしているという錯覚で充実感を得るのです。

 

また彼によれば科学者の研究も代替活動です。科学者の動機は好奇心ではなく人類への貢献でもない。解決すべき科学的問題という目標を持ち、時間と労力をかけて研究をし、問題を解決して目標を達成する。この一連のプロセスは、科学者が(その結果ではなく)労働それ自体から充実感を得ているため、代替活動であるとテッドは言います。

 

しかし彼によれば、人間の本来的な要求ではない、充実感を得るための活動は、ほんとうの充実感を得ることはないとも主張されます。ほんとうの生存闘争struggleだけが真の充実感を与えるというのがテッドの主張です。

 

テッドのいう真の充実感とは、たぶん、プリミティブなひとびとが危険な猛獣と戦って打ち勝ったとか、食料を求めて旅立ち、ついに潤沢な資源を発見したときが「真の充実感」なのでしょう。

 

現代人にはそういった生存闘争の機会はありません。また、巨大な社会構造に服従しなければならない。ここに現代人の苦しみの根源があると彼は言います。

技術は「殺される」べき

カジンスキーは最低限の技術だけを残し、技術文明は「殺される」べきだと主張します。彼は技術発展は不可逆的であり、それを管理することも制御することも人類には不可能だと主張します。なので抹殺するしかないというのです。

 

彼は産業国家以前に社会を戻すことを望んでいます。つまり、人々が部外者の助けなしに成立する小規模のコミュニティで、自然と密接に関与しながら生きる生活です。彼は残すべき技術として、水車や鍛冶屋の技術をあげています。

 

そういった生活の実現のために、カジンスキーは「工場は破壊され、技術書は焼かれるなどされなければならない」と言っています。

 

あきらかに、そういった生活に行きつくためには多大な困難が伴うでしょう。私たちは技術文明に依存しきっていますから。多くの人が苦しみ、死んでいくことは明白です。しかしテッドは「長寿だがからっぽで意義のない人生」よりも、苦しみの生の方が望ましいと言います。

 

反技術革命をいかに実現するか

さてテッドはどのように反技術革命を展開していこうというのか。ユナボマーマニフェストにはあまり詳細な記述がないのですが、Martin氏によれば最近書かれた「反技術革命」の方に実践的な主張があるようです。

 

まずテッドはシンプルな目標設定が大事だとします。革命は技術文明を「殺す」ということからスタートすると。

 

テッドはこのテーマは社会主義革命よりも有効であると言います。第一に、社会主義革命の目標は複雑です。第二に、社会主義革命は社会の「構造」を変革するにとどまり、革命にまでは至らない。反技術革命はすべての先進技術を破壊するために、本質的な影響を与えうるとします。

 

反技術運動の成員は、科学と深い関わりを持つ専門家や知識人がなるべきだとテッドは言います。「人々と議論したり、政治活動を起こす必要はない。だが、彼らには死ぬ用意ができている必要がある」。「私たちは初期キリスト者、アルカイダ、タリバン、イスラムの自爆死者、ロシア革命の暗殺者を考える必要がある」。

 

テッドは続けます。「もし革命家たちがアメリカの技術システムを突然停止させれば、全世界の経済が一気に落ち込むことになる。そのとき、世界中の反技術革命家の好機となる」。革命家たちは一切躊躇してはならない。どんなことであれ、恐れず行わなければならない。たとえ核戦争だろうと。

 

……どうなんでしょうね、この記述?

 

テッドは技術の肯定的側面を無視しているか

 

Martin氏はテッドの主張に対して批判的です。

 

「過激で危険だが、理性的な主張があることを認めなければならない」としながら、テッドの主張には問題点があるといいます。

 

技術の発展によって、18世紀に比べて平均寿命がおよそ倍になった。これらの現実的改善が技術によってなされたことは事実である。大部分は人工肥料、農業機械、水の塩素殺菌、下水システム、抗生物質やワクチンによるものである。また、眼鏡や痛み止め、印刷機械、電球、ピアノ、録音技術、電車などが数十億人の生活を豊かにしていることも否定できない事実である。

 

そうして、「テッドはあきらかに技術の肯定的な側面を無視している」と言います。これはテッドへの批判においてよく見かける主張です。

 

ただ、これは無理筋でしょう。テッドは「長寿で空っぽの生よりも闘争の生」の方が望ましいと考えているからです。言ってしまえば、単に寿命が伸びたり、飢餓に苦しむことがなくなったり、病がなくなる、というような恩恵は彼にとって肯定的影響ではないということです。

 

そもそも、それらの技術が本当に私たちを豊かにしたかも疑問です。たとえば「電車」が私たちをほんとうに豊かにしたかは慎重に考えるべき問題です。若い労働者が都市へ流入し、人口過密と地域的コミュニティの破壊をもたらしたと考えることもできるからです。また、たとえば通勤電車に乗るような人々がほんとうに豊かだと言えるでしょうか。あきらかに通勤電車は、不幸のるつぼです。

 

……Martin氏の反論はほかにも続くのですが、あまり納得いくものがないので省略します。

 

まとめ 爆弾フェチの狂人か、実践的哲学者か

以上テッドの主張を見てきました。

 

彼はやはり冷静で思慮深い人物だと思います。

 

技術が私たちの生活をつまらない無意味なものにしているという彼の主張は共感できますし、空っぽの長寿よりも闘争による生の方が意義深いという点も同意します。技術文明批判については大いに納得できるのです。

 

しかし革命的な実践の方については頭が追いつきません。「技術を殺す」などという発想はまったく常人の理解を逸脱しています。風車に向かうドン・キホーテのようです。 

 

ただ、言っていることはそこまで狂ったものでもないのです。

たしかに、技術に抵抗するのであればそれを「殺す」しか方法はないでしょう。技術を管理したり発展を抑止することは不可能です。

 

そして人類が数千年間進歩させてきた技術を「殺す」ためには、あらゆる手段を用いるべきというのも正しいでしょう。自らの死を厭わない革命家が必要でしょうし、「核戦争」もまた必要かもしれません。というか、核戦争くらい起きなければ技術の死は現実的にありえないようにも思えてきます。

 

テッドの主張は狂っているようで一面では合理的な側面があるので少しゾッとします。

 

テッド・カジンスキーは唯一無二の思想家である

こういった主張は、まったくテッドらしいものだと思います。

 

ふつうの哲学者であればこんな意見を主張できません。ある意味で監獄での生活が「保証」されている、失うものがない彼だからこそラディカルで危険ーーそして自由な思想を育むことができたと言えるでしょう。

 

テッド・カジンスキー、やはり非常におもしろい人物です。存命の思想家でこんなにおもしろい人物はいません。もっと調べていきたいです。