齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

ポジティブ・シンキングは精神を殺す

苦しみは知覚です。

苦しみを失ったとき、人は目を失い、耳を失う。

 

私たちはつねに笑顔で、元気よくいることが求められます。

 

現代社会では、苦しむことや悲しむことは異常だとみなされます。ネガティブな感情を抑圧し、除去し、治療することが正しいとされる。怒りは管理し、悲しみは薬で解消されるべきだ。

 

まったくイカれています。

 

 

 

神話としての「幸福」

テレビや雑誌ではつねにニコニコして楽しそうな「幸福な人」が登場します。

 

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Frau mit Eisbecher by Dieter Asmus

 

  • テレビ・タレントはいつも楽しそうにしています。
  • 映画や漫画ではスポーツに勝ったり結婚すれば幸福になると教えます。
  • Macbookなど商品を購入すれば幸せになれると広告は言います。
  • ブロガーや海外移住者が自分は幸福だと言ってます。
  • SNSでは「私こそが幸福なのだ」「いやいや私が」と競い合っています。

ひとはこう思うようになります。「キラキラした世界の中で、自分だけが不幸だ。私もみんなのように幸福になりたい」。

 

……私たちは切実に強迫的に幸福を追い求めるようになります。

実はだれも幸福ではない

でも、ご存知のとおり。現実はクソです。

幸福な人なんて例外でしかない。

 

「生きている意味がわからない」「自分には価値がない」と思っているのはあなただけではなく、老いも若きもみんなそうです。

 

私たちはつまらない・意味がない・やりたくない仕事に縛られます。自分ではなくだれかのために働きます。わずかな賃金で明日にはゴミになるガラクタを買い自分を慰め、死の間際にはすべてを悔やみ、そして死んでいきます。

 

金持ちは幸福か? といえばそうでもない(金儲けはつまらない - 齟齬

 

人生がクソだと認識すること――これは病的ではなく、現代人に普遍的な特徴です。

「永遠の幸福」は存在しない

テレビを消して現実を見ましょう。

 

すると気づくことですが、私たちの身の回りに「幸福な人」はほとんど存在しない。惨めで退屈な賃金労働者、抑圧された主婦、勉強漬けの子ども。

 

「幸福」はフィクションの中ばかりで、冷静に見つめれば生活は「不幸」に満ちています。少なくとも「永遠の幸福」はありえない。

 

私たちは苦味を知らなければ甘味を知らない。悲しみがなければ幸福を経験できない。ポジティヴィズムに対する執着によって悲しみを排除しようとする試みは、感情を殺すだけである。これが人が抑うつ的感覚に悩まされる理由である。実のところ、「普通の人」と「鬱病者」の違いは、自らの感情的な生の貧困を自覚しているかそうでないかの違いであると主張することができる。Reclaim Your Mind : Manifesto

 

単なる意識的/無意識的な「無視」に過ぎないということです。

 

そういう意味では、「まともに苦しむ」鬱病者の方がはるかに理性的であるといえます。

 

「人は精神を持てば持つほど、根源的なものが見えてくる」パスカル 

 

高知能の人は精神疾患にかかりやすいと言われますが、それは天才が変人ということではありません。単に知性が高い人がより高度に現実を認識しているだけで、自然なことだといえます。 

精神医学という抑圧装置 

「このすばらしく発展した現代社会で不幸だって? それは病気に違いない!」

 

と精神医学は主張します。

 

ソ連では共産主義に反対する人は精神病扱いでした。同じです。

処方薬がどのように「はたらく」か見てみよう。広告や精神医学者は治療を助けるのだと陰に陽に主張するが、現実は異なる。それらは単に「症状」を隠し、脳を沈黙させるだけだ。

  

いったん医薬品がそれらの効果をもたらすと、個々人は以前よりも悪い状態になる。というのも、すべての向精神薬は「治療」のあとには遅発性ジスキネジアとして知られるように、脳に損傷を与えるからである。またすべての向精神薬は強い常習性を持つ。(

いつも思うことですが、現代の鬱病治療はロボトミー手術や電気ショック療法と変わらないんですよね。

 

すばらしく発展した科学によれば、鬱病の原因は不明です。抗鬱剤の作用機序も不明です。精神医学って、盲人が盲人の手を引くような感じですね。

結論:苦しみは知覚、知ることは自由

私たちは痛み、苦しみ、悲しみを受容すべきです。それらは私たちを高次の認識に導くのですから。

 

それらを無視したり麻痺させることは……結局、生きることなく死ぬことを意味します。

 

私たちが知る限り、私たちはこの地球上での生を一度しかもたない。なぜ私たちはこの狂った社会の厳しい要求に自らを適合させるのだろうか。そこにはもっと生きるべき、探求すべき、経験すべき、発見すべきものがあるのに?(

 

 「不幸は異常だ、病だ」というイデオロギーは精神医学の領域だけではなく、深く私たちの生活に根ざしています。私たちは悲しむべきときに悲しまず、怒るべきときに怒らず、泣きたいときに泣きません。子どもじみている、男らしくない、社会人としての常識云々と言われるからです。

 

その結果、私たちを苦しめる価値観や社会状況のなかに縛られ続けることになります。

 

苦しみは知覚、知ることは自由です。

 

無知でいつづけることは、「幸福という不幸」の中で生き続けることを意味します。人は大いに、自然のままに苦しむべきなのです。