齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

機会平等と結果平等の違い

自由とは平等です。

平等とは自由です。

 

ということに、同意できる人は少ないかもしれません。

 

平等という概念は、必要以上に複雑になっています。「自由と平等はトレードオフ。両立しない」と考える人すらいます。

 

「平等」には、「機会平等」と「結果平等」があります。このふたつは根本的な相違があるので、よく混乱してしまう人がいるのです。

 

なにがどう違うのか、どちらが望ましいのか、考えていきましょう。

 

機会平等と結果平等の違い

簡単にまとめます。

 

機会平等 Equality of oppotunity……だれにでも同様の機会が与えられること。

例:スポーツ競技

 

結果平等 Equality of outcome……だれにでも同様の成果が与えられること。 

例:万人が年収1000万円の社会

 

というわけで、同じ平等でもぜんぜん違います。

結果平等は恐怖社会

結果平等は、「持たざる者」がいない社会です。だれでも一定の食料や、衣類、住居をもつことができます。また、同時に「持つ者」もいない社会であり、嫉妬や不公平感に悩まされることもありません。

 

結果平等の社会は、いっけん理想的な社会で、一部の社会主義者も理想としている社会です。しかしだれもが直感するように、抑圧的な側面と維持困難な側面があります。

結果平等は抑圧である

人はそれぞれユニークな存在です。異なる欲求や能力、興味関心をもつ生き物です。

 

結果平等はそういった個性に対して、抑圧的にはたらきます。だれにも同じ価値観を要求し、同じ物品を与え、同じように生きることを強要するからです。

 

たとえばある人には医療サービスが不要なのに、「平等に」医療コストを支払うよう要求されます。そういった社会は、あきらかに個々人の自由を制限する「恐怖政治」となります。

結果平等の社会は実現しない

結果平等の社会では、特定の価値観、ライフスタイルが、唯一正当なものとされます。

 

そういったものを「押しつける」ためには、権威的な、中央集権的な政府が必要になります。すると、たちまち少数のエリートが大多数を管理し、監視し、統制することになる。

 

もちろん、これはすでに「平等社会」ではありません。たしかに大多数の人々は平等ですが、それは刑務所における平等と変わりがない。

 

「結果平等」はその実現のために「不平等」を要求するので、自己崩壊する定めなのです。 

資本主義は機会平等か

そういったわけで、あきらかに「結果平等」よりも「機会平等」の方が合理的で優れた考え方となります。

 

しかし、次に大きな問題が控えています。これは現代の資本主義を肯定することになるのでしょうか?

 

「資本主義ではだれもが平等に機会が与えられている」。「才能や努力しだいで、だれもが成功者になれる」。

 

ミルトン・フリードマンをはじめとする新自由主義的な人たちや、ビジネス書を読むような人はそういった夢を見ています。 

 

でも、よく考えてみましょう。資本主義に機会平等がはたして存在するでしょうか?

大富豪の息子と掃除夫の息子は同じ機会を持つか

あまり知られていないことですが、古代の奴隷制の社会においては、かなりの数の奴隷が「努力や才能」によって解放されたり、社会的成功をおさめることができました。だからといって、「奴隷制は機会平等だ」という人はいないでしょう。

 

現代でも貧困層から富裕層に成り上がる例はあります(私はあまり知らないですが)。しかし、ほとんどの貧困層にチャンスはなく、生きるために、他人のために働く――賃金労働が強いられています。

 

金持ちの息子には非常に幅広い機会が与えられ、貧乏人の息子にはわずかな選択肢しか与えられない。資本主義は結果的にも機会的にも平等ではないということです。

 

文化資本とは何か―負け組が這い上がれない理由 - 齟齬

 

(ところで、労働者内のヒエラルキーでは年収二千万円くらいで「成功者」とされますが、富裕層とは例えば「何もしなくても月収五千万円」レベルです)

結論:「機会平等」を追求しよう

平等には「機会平等」と「結果平等」があります。前者は自由であり、後者は抑圧的です。

 

一方で、資本主義社会は機会平等の社会ではありません。資本家と労働者で成り立つ階級社会ですから、機会平等は制限されることになります。

 

機会平等は、追い求めるべき概念です。おのおのがなりたい者になり、才能を最大限発揮し、したいことをする――つまり、「自由」が成立するからです。

 

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機会平等の社会では、ひとびとの多様性が最大限発揮されます。

平等で自由な社会とは……アナーキズム

結局のところ、階級による支配を廃したところにしか本当の自由=機会平等は存在しません。 

 

20世紀初頭のアナーキスト、Alexander Berkmanは以下のように書いています。

 

 「しかし、アナーキーな社会においては、経済的社会的な平等は、平準化を意味するのではないか?」君は聞く。

 

そうではない、友人よ。まったく逆だ。というのも平等は、量的なものではなく「機会」の平等だからだ。それはつまり、たとえば、もしスミスが一日五食必要であれば、ジョンソンが同じ量を食べなければいけないというものではない。もしスミスが五食食べる一方でジョンソンが三食食べるならば、それは量として不平等だ。しかし両者は自分が必要な分だけ、自然な要求の分だけ食べたという点で完全に機会的に平等である。

 

自由における平等を刑務所における強制的な平等と同一視してはならない。ほんとうのアナーキストの平等は、自由を意味する。量ではない。平等はだれもが同じものを食べ、飲み、着、同じ仕事をし、同じように生きることを意味するのではない。実のところ、程遠いし、まったく逆だ。

 

個々人の好みや必要は異なる。食欲が異なるように。真の平等を成すのは、それらを満足させる機会の平等である。

 

アナーキズムにおける平等、また社会主義や共産主義における平等については、別の機会に詳細に書こうと思います。