齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

現代人は奴隷である

私たちは奴隷です。

 

と言ったときに、「そんなはずはない」と答える人が大半だと思います。「奴隷制は過去のものだ」と私たちはなんども教え込まれているからです。

 

しかし、私たちは奴隷です。別にこれは陰謀論ではありません。

 

私たちは資本主義社会に生きています。つまり、資本家と労働者の階級社会です。つまり、格差、不平等を基本とし、強者が弱者を食らうような社会です。結局、「主人と奴隷」は依然として存在するのです(賃金奴隷制)。

 

たしかに私たちは鞭打たれたり鎖をつけられるような物理的な支配は受けていません。働く会社は好きに選ぶことができる。しかしいずれにせよ、賃金労働者として、会社の命令に従って働かなければ生きていけません。

 

逃げ道がないのは、結局見えない鎖に繋がれているのと同じです。

 

さて、アナーキスト・ライブラリーを散策していたらDylan Muirhead氏の「Master and Slave」という記事がよくまとめられていたので、概要を書いていきます。

 

奴隷制の起源

まず、奴隷制はどのようにはじまったのか。

  • 動物に対する支配(家畜化)がはじまる。人間が食糧生産のために行っていた労働を、動物が行うようになる。
  • 共同体に指導者が生まれるようになる。
  • 宗教が生まれ、人々の精神のイデオロギーとなる。
  • 人間への奴隷制がはじまる。

奴隷制とは、「指導者」が「劣った」人々を命令し、自分のために労働させる社会であり、その構造は現代まで続いているとDylan氏は言います。

現代の奴隷制

「資本主義は人間による人間の奴隷化の最終段階である」とDylan氏は述べます。

  • 究極的な主人は、 生産手段を所有し、管理する「資本家階級」
  • 政治的指導者である大統領や首相は市民の主人(マスター)階級であり、従わない場合刑務所に入れられるような法律を課す。
  • 社長や経営幹部は被雇用者の主人階級であり、ビジネスのルールを課す。

というわけで、少数の資本家階級が、膨大な数の労働者を支配していることになります。

労働者たちは分断される

労働者たちは非常に細かく分断される、とDylan氏は言います。

  • 労働者階級は、高収入者やホームレスまでさまざまに分断されている。これは資本家階級や指導者が課す「収入(に基づく)階級」である。
  • セックスやジェンダー、民族、宗教、収入に関する信仰は、だれがだれよりも「良いか」という考えを生みだす。こういった思考は奴隷制の枝葉である。
  • 主人たちは収入階級や人種階級、性的な階級によって、私たちが互いに争うよう仕向けている。実際にはみな同じ奴隷なのにもかかわらず、私たちは分断されてしまう。
  • 人々は「平等は決して実現しない。劣った人々がいるのだから」と考えるようになる。奴隷たちは「私たちには指導者が必要だ」「指導者を頼るのは人間の本性だ」と信じ込まされる。このようにして主人階級による支配が正当化される。

 

これは実感として非常に理解できることで、私たちは非常に頻繁に他者と比較し、優劣をつけています。たとえば最終学歴の偏差値が少し違うだけで、年収が少し違うだけで、「平等な人間」とはならない。

 

生まれた年、自動車のランク、着ている物、家の大きさなど、非常にどうでもいいことで人の優劣を判断する。私たちには実際には差異なんてほとんどないのに、細かい差異に執着するよう教育されます。 たとえばテストの点や、スポーツのスコアなどで私たちは学校で、互いに競争することを学習させられる。

 

これは対等な関係による「組織化」が、支配層にとって非常に不味いからです。チョムスキーを引用します。

(支配者にとって)大衆の組織化などあってはならないことだ。大衆が組織されれば、行動の傍観者にとどまらなくなる恐れがある。かぎられた資源しかもたない人びとが大勢集まって団結し、政治に参入できるようになったなら、彼らは観客ではなく、参加者になってしまうかもしれないのだ。それは紛れもない脅威である。(「メディア・コントロール」)

私たちは細かい差異づけによって互いに反目しあい、永遠に団結せず、政治の傍観者となるように教え込まれているわけです。 

まとめ:奴隷制を終わらせるためには

Dylan氏は以下のように書いています。

  • 私たちは富裕層は中産階級よりも、中産階級は貧困層よりも、貧困層はホームレスよりも優れているのだと考える。この考え方は、支配を正当化する。
  • 私たちの社会では、社会的、経済的な平等が実現していない。これは実際に人々が不平等なのではなく、主人階級が「だれがだれよりも優れているか」を教え込み、信じ込ませるからである。
  • 人間の奴隷制は、奴隷が次のことに気づくまで終わらない。すべての人間が少数者の奴隷になっているということ、そのことが人類の平等を抑圧していること、つまり、すべての抑圧された人々が平等であることを自覚すること。

 

Dylan氏の主張のおもしろい点は、主人階級に対抗せよ、と言うのではなく、社会的に抑圧を受けている弱者に目を向けよ、と言っていることです。

 

たとえばある人が「低学歴は無能だから低賃金でもしかたない」というとき、その人は自分よりも高学歴のエリートの権威に服従することに合意しています。

 

まずは自分を奴隷だと認識すること。

 

そして、優れている/劣っている他者も、自分と同じ奴隷なのだと認識することができれば……

 

私たちは団結し、政治的主体となり、支配に対抗することが可能ということです。

 

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kathe kollwitz solidarity 1932

 

もっとも、その実現は非常に難しそうですが! 

 

とにかく、賃金労働者たちは自分が奴隷だと気づくまでが難しいと思います。奴隷制の自覚は、高学歴高年収の人はもちろんそうですが、低学歴低収入の人にも難しい。

 

ほんとうに、学校やマスメディアの洗脳は強力ですし……。資本主義の支配ってよくできてるなあ、と思います。

補遺:賃金奴隷について

思考の助けになる文章を引用します。

 資本は労働者に直接的な強制力は行使しない。それだけに、労働者から余剰な労働を奪う強制力がなにか、すぐにはわからないのだ。たしかに労働者は純粋に経済的な強制のもとで、自分の労働力を売って、賃金を受けとる。しかしこの経済的な強制力は、直接の政治的な権力や軍事的な権力とはきわめて異なる性格のものだ。
 資本主義的でない社会では、地主や国家は直接的な権力を行使して、生産者から地代、税金、貢納金を収奪してきたのだった。もちろん、資産をもたない労働者が生存と労働の手段を入手するには、自分の労働力を売って賃金を受けとるしか方法がないのは明らかだ。
 しかしここで働く強制力は、非人格的な性格のものである。人間ではなく、市場が強いているようにみえる。封建領主と農奴の関係は支配と服従の関係であり、これは法的に認められていた。これと比較すると、資本化と労働者の間で正式に認められているのは、法的に自由で平等な個人の関係だけである。だからこれは強制というよりも、選択の問題のように思えてくるのだ。(「資本の帝国」エレン・メイクシンズ ウッド)

 

ブルジョアジーがプロレタリアートを縛りつけている奴隷状態が、工場制度でのように明白に現われるところはない。ここでは、法律的にも事実的にも、いっさいの自由がなくなっている。労働者は朝の五時半に工場に出なければならない。彼は、二、三分も遅刻すれば罰をうけ、一〇分間も遅刻すれば、朝飯の終るまで入場を許されず、しかも一日の賃銀の四分の一を失う。彼は指揮どおりに、飲み食い睡らねばならない。……暴虐の鐘が彼を寝床からよび起こし、朝飯や昼飯から彼をよび立てる。では、ひとたび工場にはいると、どんな工合か?ここでは、工場主が絶対的立法者である。彼は、欲するままに工場規則を制定する。彼は好きなように、自分の法典を変更したり追加したりする。そして、彼が馬鹿げきった規則を設けても、裁判所は労働者に宣告する、――お前は自由意志でこの契約を結んだのだから、いまやお前はそれを守らねばならぬ、と。……これらの労働者は九歳のときから死にいたるまで、精神的および肉体的な笞のもとで生活すべく宣告されている。」(「労働階級の状態」F・エンゲルス)