齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

普通の生活というドグマ――順応主義と死の恐怖

――この人たちは、なんのために生きてるんだろう。

生きていて楽しいのだろうか。もっと別の生き方を、なぜ選ぼうとしないのか。

 

世の中には、退屈な日々を送る人、退屈な思考をしている人ばかりです。石を投げればつまらない順応主義者に当たります。

 

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Outsider by Lesley Oldaker 

 

さらに悪いことに、彼らはそういった生活から抜けだそうとするどころか、なにも疑問を抱かず、満足し快適に過ごしてさえいます。

 

いったいそういう人は……どうしてそうなっちゃったのか? ということを考えます。

 

 

順応主義者、反順応主義者、非順応主義者

順応主義者conformist(大勢順応主義者、遵奉者)とは、以下のような考えのひとたちのことです。

  • 国や企業のためにコツコツと働くのは良いことだ
  • 友人と騒いだり恋人とロマンスを演じるのが人生の楽しみだ
  • お金を稼いで良い車良い家を買うことが人生の目標だ
  • 子どもを立派な社会人に育てることが自分の役割だ

簡単に定義すれば順応主義者「社会的に受容された価値観や行動、信条を模倣する人々」といえます。

 

現代では世の中の大半はそういう人々ですが、さらにふたつのタイプが存在します。

 

反順応主義anticonformity――順応主義にとりあえず反対する人。左翼やサブカル系、パンクロッカーのような人(菜食主義も?)。

非順応主義nonconformity――個人的な、純粋な合理性による行動、信念、価値によって、個人の人生や人格が形づくられている人。

 

反順応主義者は一見反逆的ですが、中身は順応主義者と変わりありません。

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反順応主義の例:ゴスな人々(サウスパークより)

 

なので、世の中は順応主義者か、非順応主義者が存在することになります。

順応主義者と死の恐怖

私たちは多かれ少なかれ死の恐怖を感じています。

 

非文明社会では、死の恐怖はわずかなものでしたが、文明社会では死の恐怖が増大していっています。

 

順応主義者がなぜ主体的に、個性的な生を生きようとしないのか。文化人類学者のアーネスト・ベッカーは、その根底には死の恐怖があるとします。

 

彼によれば、私たちは死の現実を不安なしに直視することができない。そのために、死を否定しようとするのです。

 

ベッカーは「ヒロイズム」という概念を持ちだします。私たちの肉体は有限です。なので人生の目的や、その結果を、肉体の外に見つけだすことによって、不死の生命を可能にします。

 

ベッカーはふたつのヒロイズムを提唱しました。

個人的ヒロイズム 

ひとつは、個人的ヒロイズムです。これは非順応主義者が辿る道です。個々人のユニークな能力や才能を発揮し、なにか革新的なものを生みだしたり、意義のあるものを打ちだすことをさします。芸術家とか、科学者、実業家はこのタイプだとベッカーは言います。

 

しかし、個人的ヒロイズムの道筋は多くの人には困難です。文明社会は人々に順応主義を教えこみ、それによって社会が成り立つのだから。

文化的ヒロイズム

したがって代替案として文化的ヒロイズムがあります。順応主義者はこの道をたどります。これはあらかじめ存在する社会的役割を演じることを意味する。

文化とは、暗闇のなかで独りでいることを恐れる幼児の防衛メカニズムで構成されている。(ベッカー)

文化的ヒロイズムの道筋においては、生活が退屈で単調な繰り返しになる一方、快適さ、安心感があります。

 

また、「なにかすばらしいことに参与している」という感覚を与えます。

「ふつうの人生」という宗教

「人は逃れられない実存的恐怖に直面して2つの次元で身を守ろうとする。まずは、現実世界には秩序と意義があり、私たちは無意味な生を送っているのではないという確証となる『文化的世界観』を築く。次に、その特殊な文化的世界観に合致した価値観で生きることで得られる『自尊心』を築くのである。そうして私たちは、ニューヨークマラソンに出場し、選挙に名乗りを上げ、チャリティー活動を通じて飢餓救済に励む――そうすることで、『何か大いなる存在』の一部に属したいと願う」(サラ・マレー)

 

普通の賃金労働者や普通の親たちがすばらしいことをしているわけではないのですが、そういう「感覚」はたしかに存在しているのです。 

 

ベッカーに言わせれば、順応主義はひとつの宗教であり、中世ヨーロッパにおいて存在の意味や価値観が広められたように、私たちの価値観も社会によって形づくられているとします。

 

テレビや新聞(そしてSNS)では絶えず「良き労働者」「良き消費者」「良き妻」「良き夫」となることがすばらしいことで、唯一の正しい意義深い人生だと布教されます(たとえば「サザエさん」を考えてみてください)。これは世俗的な宗教とよく似ている。

 

私たちは無宗教の時代を生きているとされますが、それは抑圧的・迷妄的な宗教からの脱却ではなく、新しい、より巧妙な宗教(たとえば「科学」、「消費」)に移行しているだけなのでしょう。

非順応主義者の大衆への恐怖

あらゆる宗教がそうですが、社会でひとつの宗教が崇拝されるほど、非順応主義者は追放されたり、嘲笑されることになります。そんなわけで非順応主義者は、基本的に大衆を恐れます。また、順応主義的な生活の虚妄を暴く、反抗的な試みをします。

 

非順応主義者は、そういった宗教にとらわれることがない少数者です。当然ながら、彼らの人生は多くの苦痛と困難が待っていることが予想されます。

 

創造の道は、あまりにもキチガイ病院に近いために、しばしば人々は遠回りをするか、そこで果てることになる。

“The road to creativity passes so close to the madhouse and often detours or ends there.”

とベッカーは言っています……。ベッカーって口が悪いんですよね、かなり。

死の恐怖を薄めるためには

「死の拒絶」におけるベッカーの主張はこうです。「文明社会とは、死の恐怖から逃れるための象徴的な防衛機制なのだ」。

 

私は逆だと思います。文明社会が死の恐怖をもたらすがために、その恐怖を緩和させるシステムが二次的に必要なのです。

 

文明社会は階層社会である以上、特権階級も下位階級も自由に生きられなくなります。生の充実感が欠乏することで、人生は希薄で短いものとなります。そこから死への恐怖が生まれます。

 

どんな時間でも自分自身の必要のためにだけ用いる人、毎日毎日を最後の一日と決める人、このような人は明日を望むこともないし恐れることもない。(「人生の短さについて」セネカ)

 

毎日を自分たちのために、自分たちで生きている人は死の恐怖をあまり感じないでしょうし、事実、非文明社会では死は恐れるべきものでもなかった。つまり、文明社会(階層社会)から離れることによって、死の恐怖は薄れてゆくということです。 

 

非順応主義者の生き方も良いと思いますが、究極的には死の恐怖をなくしてゆくことが重要ではないかと思います。

結論:順応主義は幸福には生きられない

いずれにせよ、順応主義は死の恐怖から生まれるという考え方は有効だと思います。

 

世の中の大半の人を敵に回す言い方ですが、順応主義者は幸福には生きられません。他人の価値観にしたがって、他人のために生きることが幸福でしょうか? ベッカーは事実、そういった生を「もっとも不幸な人生」としています。

 

もっとも、そのことがわかるのは死が近づいたときだと思いますが。

 

ああ、かくも多くの人びとがすべての思想のうちでもっとも祝福されているこの思想に目を蔽われてかくもむなしく日々を過ごしつつあるというこの悲惨、人間は特に大衆はほかのあらゆる事柄に携わらせられて人生の芝居のために機械のように自分の力を消耗させられながらただこの祝福のことだけは決して思い起こさせられないというこの悲惨、おのおのの個体が最高のもの唯一のもの――人生はこのために生きがいがあるのであり、このなかで生きるのは永遠も長すぎはしないのである――を獲得しえんがために個体として独存せしめられることの代わりに、逆に群衆の堆積と化せしめられているというこの悲劇、――こういう悲劇が現存するという事実のためには私は永遠に泣いても泣ききれない思いがするのである!(キェルケゴール「死に至る病」)