齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

「本当の人間」はいかに生くべきか

現代社会はクソである。

 

もしそう思うのなら、あなたは本当の人間です。

 

 

現代社会と「本当の人間」の不在

 ディオゲネスは昼間、ランプを灯して町中を歩き回り、「私は人間をさがしているのだ」と言いました。

 

文明社会とは階級制度です。

 

奴隷制、封建制、資本主義。そのいずれにおいても、大多数の強制され搾取される人々がいて、少数の支配し強制する人々がいる。

 

こういった社会には、「本当の人間」がいなくなります。

 

奴隷たちは生命力や思考力を奪われます。主人たちは奴隷に依存することで、自由を失う。

 

かつて、「本当の人間」は文明から逃れて生きてきました。徴税や徴兵に嫌気がさした人々や、自由と真理を愛する哲学者や宗教者は、世俗を離れ、高山や秘境で生活した。

 

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Hermit Reading by François-Marius Granet (1775–1849)

 

しかし、現代では、「技術」がそれを不可能にしました。

  • 土地開発と人口過密によって、逃亡者や隠者の住処が奪われる
  • 人口管理によって徴税や法的支配を逃れられない
  • 文明の「便利な生活」に依存し、それをぬけだすには多大なコストが必要。
  • マスメディアや教育の効果的な心理学によって、人心支配が強力なものとしている。

 以上のようなプロセスで、私たちはほとんどが支配関係に組み込まれることになります。 

本当の人間を殺す装置としての学校

私たちは学校制度によって、「適切な思考」「適切な態度」は強制されます。ようは学校は精神を殺す。

自然が創造したままの人間は、予測のつかない、不可解な、危険なものである。それは、未知の山々から勢いよく流れ落ちる激流であり、道も秩序もない原始林のようなものである。そして、原始林が間伐され、清潔にされ、強制的に制御されなくてはならないように、学校は、自然のままの人間を破壊し、征服し、強制的に制御しなければならない。学校の任務は、体制側から認められた諸原則に従って、自然のままの人間を社会の有用な構成員とすることであり、その人間の中のさまざまな特性を目ざめさせることである。それからそれらの完全な養成教育を、兵営の周到な訓練によって、最後を飾って仕上げをするわけである。(ヘルマン・ヘッセ「車輪の下」) 

 

現代のあらゆる国家を見ればわかることですが、学校制度がなければ国家は成立しません。

 

まず彼らに「国民nation」であることを教え込むのが学校の役割です。国のために働き、国のために戦え。そう教える装置が学校です。 

文明と死の恐怖

「人間は自然のなかで生きていると、将来死ぬことを気にしなくなる。明日死ぬとしても、今日が満たされていればそれで幸福である」というようなことをテッド・カジンスキーは言いました。

 

自分の力で自分のためだけに生きていると、生について顧みたり、人生を反省することはないということです。

 

ひるがえって、私たちの大半は死を恐れ、死の間際には後悔の念に苦しみます。そのトップ3は、

  • 他人が私に望む人生ではなく、真に自分のための人生を生きる勇気を持てばよかった。
  • たくさん働かなければよかった。
  • 自分の感情を表現する勇気を持てばよかった。 
    (詳細:賃金奴隷wage slaveから解放されるために - 齟齬

というものです。

 

文明社会では「死への恐れ」が病として蔓延します。現代社会では、「もう死んでしまうのか! まだ私は自分の人生を生きていないのに」と死んでいく定めです。

 

そういったことを背景に、ひとつの鎮痛剤――阿片としての宗教が広まるようになります。「現世は苦難に満ちている。死後の世界に救いがある」という、便利な嘘? は、ひとびとを本当の問題から遠ざけることに成功しています……。

 孤独のあたたかさ

しかし、いずれにせよ、「人間らしい人間」は存在します。というのも、どれだけ抑圧しようとも「人間は人間」だからです。

 

ほんとうの人間は、その若い頃、「世界を選ぶか、自己を選ぶか」という葛藤に襲われます。

 

ある程度の精神の位階にある人は、「迷わず自己を選べ」と言うでしょう。ヘッセもそのひとりでした。 

大多数の人びと、あの家畜人間のすべては一度も孤独を味わったことがない。彼らはいったん父や母から別れるけど、それはただひとりの女のところにもぐりこんで、急いで新たなぬくもりと自分とつながるものの中へ沈みこむために過ぎない。彼らは一度としてひとりでいることはなく、決して自分自身と語ることはない。

……

君たち愛する者よ、故郷なしでは、祖国なしでは、国民なしでは、名声なしでは、共同生活に伴うすべての甘美なものなしでは、生きるのはつらい。寒さの中では、生きるのはつらい

……

君たち自身の心の中から来る声に従うが良い! これが、この声が沈黙するならば、何かが間違っていることを、何かが正常でないことを、君たちが間違った道を歩んでいることを知るがよい。 

結論:わがままに生きよう―苦難の道だとしても

「本当の人間」は、文明のなかにあって、こういった死の恐怖や虚無の人生から逃れうる数少ない存在です。

 

彼らはニーチェの言うように、「これが人生であったか! さらば、もう一度!」と言える可能性をもっています。

 

生を無条件に肯定することができる可能性があるのです。

 

ただ、それは「安易な道」ではありません。

毎年あらわれる人一倍深く高貴な精神をそなえた数人の人物を根本からへし折ろうと、国家や学校が、やっきになって努力していることを私たちは何度も目にしている。ところがあとになって、誰よりも私たち国民の文化財を豊かにしてくれるのは、普通はほかでもない教師たちに憎まれ、罰せられ、脱走したり、放校された人たちなのである。けれどかなりの数の人間が内心の反抗だけに精魂を使い果たして破滅してゆくのである。――その数はどんなに多いことだろう?(ヘッセ「車輪の下」)

 

というわけで、「本当の人間」の大部分は、構造的必然によって大半は潰されます。クソな世の中ですね。

 

でも、結局「だれかのための人生」を生きるよりは、立派だと思います。

私たちは計算機でもなければ、何かほかの機械装置でもない。私たちは人間である。そして人間にとってはただひとつの自然の見地、ただひとつの自然の尺度があるのみである。それはわがまま者の尺度である。わがまま者の尺度には資本主義の運命も、社会主義の運命もない。その尺度には英国も米国もない。彼にはただ自分の胸中の静かな必然の法則が生きているのみである。その法則に従うことは、安易な慣習の中に生きている人たちには、実にかぎりなく困難なことであるけれど、わがまま者にとっては、その法則は、運命を、神を意味しているのである。(ヘッセ 1917) 

 

ということで、わがままに生きましょう。わがままとはすなわち、「汝それなり」です。

 

今日の引用元は以下の本です。

 

 

吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」が謎のブームですが、青少年はヘッセを読んだほうが有益ですよ。