齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

ユナボマー・マニフェストを読む―産業技術と自由

ユナボマーが狂っているのか、社会が狂っているのか?

  

「テッド・カジンスキー」とgoogle検索すると、「賢過ぎた為に狂気に染まった天才爆弾魔*1」などと出てきます。 また、英語圏のサイトを見ても、彼を中立的に描く記述は稀です。「天才だったが狂った」「天才だが人格は幼稚だった、冷淡だった、パラノイアだった」というように書かれる。

 

もちろん、彼のしたことは罰せられるべきでしょう。3人を殺害、多くの人々に怪我を負わせた彼の爆弾テロは批判に値する。しかし彼が狂っていたかというと、そうは思えない。

 

彼の幼年期のIQは167ありました。つまり彼は25万人に1人の天才であり、99.9996%の人は彼の知性には勝てません。飛び級した末20歳でハーバードを卒業し、25歳でバークレーの助教となった彼です。大部分の人よりも理性的であるはずです。

 

また、彼のマニフェストを読んでみても、狂っているとは考えがたい。  

「私たちの社会が狂っていて、テッドが正しい」という可能性があるのかも?

  

 

ユナボマー・マニフェストの序盤の部分はすでに訳しました。(左翼の問題点―過剰社会化左翼は偽善者のマゾヒストか

 

ただ、最近めんどくさくなって、本を買って日本語訳を読んでいます。そこから引用していきます。訳者は田村明子。

 

 

ユナボマー・マニフェストとは 

テッド・カジンスキーは、爆弾テロをやめる引きかえにニューヨーク・タイムズとワシントン・ポストという一流メディアに「産業社会とその未来(通称:ユナボマー・マニフェスト)」を掲載させました。

 

1995年のことなので、そう遠い昔ではありません。

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「産業社会とその未来」。だいたい新書一冊分くらいある。

 

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送りつけられた原文。

 

概要としては、強烈な産業技術社会批判です。

「現代文明の発展は人間性や生態系を破壊する」「産業革命は絶対悪であり、文明社会を発展させるために追求した技術の進化によって、それを創造した人類までもが支配されてしまう」と主張した上で、自然への回帰を促した。

Wikipediaにはある。

  

なぜユナボマーはテロを起こしたか?

まず、彼はなぜテロを起こしたのか。ユナボマー・マニフェストでは以下の記述があります。

 

(96)マスメディアはほとんどの場合、体制の一部になってしまっている大規模組織にコントロールされている。

 

ほんのわずかのお金で、誰でも自分の考えをビラにしてまいたり、インターネット上で発表できるが、マスメディアによって大量に流されてくる情報によって簡単に飲み込まれてしまい、現実的に影響力を持つことはほとんどない。言葉によって社会に影響をもたらすことは、ほとんどの一個人や小規模グループにとってほぼ不可能なことである。

 

われわれを例にとってみよう。もしわれわれが暴力に訴えることなく、この声明文を出版社に持ち込んでいたら、たぶん相手にはされなかったであろう。仮に受け取ってもらうことができ、掲載されたとしてもおそらくそれほど多くの読者を惹きつけることはできなかったであろう。なぜならば、堅いエッセーを読むよりも、メディアによって作られた娯楽番組を見ている方が楽しいからである。

 

万が一この声明文が多くの人々に読まれたとしても、ほとんどの読者が、すぐに何について書いてあったのか忘れてしまうだろう。われわれのメッセージを公衆に強く印象づけるため、殺人を犯さなくてはならなかった。

(マニフェストなので、主語がわれわれ"we"になっています)

 

 この記述はハッとする部分があります。もし「全米を恐怖に陥れたテロリストの声明文」でなかったら、私や、多くの人がこのマニフェストを読まなかったことは事実です。

 

ただ、ホントかな?と思うところがあります。爆弾テロがはじめから「マニフェストを読ませるため」だったかは疑問です。殺人を正当化するための後付けの設定とも考えられます。

 

いずれにせよ、これはテッドがテロをした理由を主張している記述です。 

産業技術のなにが問題なのか 

核心部分。タイトル通り、テッドは産業技術批判を行っています。いったい何が問題なのでしょうか。

 

まず、個人的にとくに気にいった文章を。

(49)電気、芝刈り機、ラジオ、バイクなどの雑音製造機ともいうべき機械類。これらのものの使用が野放しの状態では、平和と静寂を求める人々は雑音によって欲求不満を生じる。また、もしも使用が制限されれば、これらの機械類を使用する人々は欲求不満を感じる。しかしもしもこれらの機械が発明されていなければ、誰もこれらの不満を持つことはなかったのだ。(一部訳文改)

ノイズに弱いHSPとしては非常に共感できます。というか、たぶんカジンスキーも騒音に悩まされていたでしょうね。

現代社会の「自我の危機」 

テッドは、「パワープロセス」という概念を掲げています。やや難解な概念なのですが、 以下のように説明されている。

(33)パワープロセスには、四つの要素がある。そのうちの明快な三つは、目的、努力、そして目的の達成(goal, effort and attainment of goal)である。(人類には目指す目標が必要で、その目標にはある程度の成功を伴うことが必要だ)。四つ目の要素は説明することが難しく、だれもが必要とはしていないかもしれない。われわれはそれを自己決定権autonomyと呼ぶ。(英文は引用者)

目的、努力、目的の達成、自己決定権の追求によって、人々は(心理的に)健康に生きられるとしています。

 

で、こういったパワープロセスは現代では不自然で人工的なものになっているとします。

(66)今日人々は、自らが自分のためにできることよりも、システムがやってくれることを頼りながら生活をしている。そして自分のために行うことも、近頃ではシステムによって引かれたレールの上でのみなされるようになっている。 

また、原始人とは違い、現代人は克服困難な巨大な問題に悩まされています。「(69)現代人は、自分の力が及ばない多くの事柄に脅かされている。原発事故、食物の発ガン性物質、環境汚染、戦争、増税、大きな組織によるプライバシーの侵害、そして個人の生活を破壊するかもしれない経済や政治上の事柄など」

 

そういうわけで、現代人は無力感や人生のむなしさ、アイデンティティーの危機を抱えて生きています。「生きがい」を渇望するようになっており、かつて原始人がもっていたような精神的健康を損なっている、というのがテッドの主張です。 

 

パワープロセスの欠乏でどういったことが起きるのか、テッドは以下のように図示してます。

 

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(同著より)

現代的なメンタル・イルネスの病理が素描されています。重要なことは、「努力の不要な支配層」も、「努力するが敗北する下層」も同じように病んでいくということでしょう。階級は不幸を生みだすということです。

テッドの主張する「自由」

彼は産業技術が「自由」を奪っていると考えました。彼にとって自由とは何なのか。

(94)「自由」とは、代用活動から生まれた偽りの目的ではなく、真の目的を持って、パワープロセスを戦い抜く機会を与えられることである。妨害されることなく、操られることなく、誰からも監視をされることなく、ましてやそれがいかなる大きな組織から与えられたものでもない。

 

自由とは個人として、あるいは小規模グループの一員として、自己存在の生死に関わる問題、すなわち食料、医療、住居、さらには身のまわりのあらゆる脅威からの自己防衛の問題を管理できる環境にあることをいう。自由とは、力だ。それは他人をコントロールするための力ではなく、己の人生の環境をコントロールする力のことである。もし誰かが――それが大きい組織であればなおさら――自分をコントロールしているのであれば自由はないのである。それがどんなに慈悲深く、寛容で、寛大なものであっても。自由というものをたんなる寛大さと勘違いしてはならない。

 

この「自由」の概念には、多くの人が納得できるのではないかと思います。

 

つまり、「自由」とは、自分自身で人生を戦い抜くこと、力を拡大していくことです。これ、ニーチェの「権力への意志」が近いと思います。また、最近流行のアドラーっぽいですね?

自由の失われる現代

非常に共感できる記述があったので紹介します。

(95)ニューイングランド地方のインディアン部族はほとんど専制政治であったし、イタリアのルネッサンス時代の都市の多くは、独裁者によって支配されていた。しかしながら、これらの社会についての本を読むと、われわれの社会よりもはるかに個々の自由が保障されていたような印象を得る。なぜかといえば、その頃には独裁者の力を効率よく末端に行きわたらせるようなメカニズムがなかったからである。迅速な長距離コミュニケーション手段も、監視カメラもなく、平均的な一般大衆の生活レベルを報告するような文書も出まわっていなかった。それゆえ、コントロールされるのを避けることは、比較的に容易だった。

そのとおり、昔の人の方があきらかに自由でした。国家や支配者が嫌なら逃げ出せばよかった時代です。(昔の人はクソ国家から好き勝手逃げだしていた

 

現代では国家権力や資本家の支配から逃れることはできません。現代社会は「自由だ」と言われますが、現実はあべこべで、中世や近世よりも自由が制限されている。

技術が奪う自由

(117)テクノロジーの進歩した社会では、個人の運命は常に当人の希望などはほとんど届かないところで決定される。テクノロジー社会は小さな、それぞれ独立した共同体の集まりには分化しえない。なぜなら大勢の人間、たくさんの機械の共同作業によってこそ社会の規模に見合うだけの生産が可能であるからだ。つまりこのような社会は高度に組織化されていなければならないし、よってそこでの決定は多数の人々に影響を及ぼすものとなる。

 

……ほとんどの個人は、自分の人生を左右する決定に関与することができないのだ。……システムはプロパガンダを用いて、人々が与えられた決定で満足に感じるように仕向けるという「解決法」を試みている。しかしこの「解決法」がたとえ成功したとしても、それは人類への侮辱にほかならない。 

 

技術は、その本質として高度な組織化を求めます。そのような社会では、私たちは集合的に管理されます。そういった環境では自律性autonomyはほとんど実現できない。

 

(120)システムのなかに人間的な目的意識と自己決定権を少しでももたらそうとするのは、できの悪い冗談でしかない。例えばある会社は、個々の社員がカタログの一部を作る代わりにそれぞれが一冊のカタログを端から端まで作るようにしたという。それによって社員ひとりひとりに目的意識をもたせ、仕事を完成する喜びを与えるというわけだ。……いずれにせよ、個々の社員はけっして会社としての最終的な目標には何ら発言権を持っていないのだ。……繰り返すが、純粋に技術的な理由により産業社会ではほとんど自由な裁量を持ちえないのだ。そういった意味では中小企業の事業主でも、限られた裁量しか持たない。政府のさまざまな規定に従わなければならないだけでなく、より大きな経済システムにうまく適合し、そのルールに従って生産活動をしなければならない。

というわけで、ほとんどの人々は自由ではありえない。

 

この文章を読んで思ったことですが、「ブロガーとして自由に生きる!」とか言ってる人って、結局グーグルの奴隷ですよね。 

技術と自由は両立しない

技術の良いところだけをとって、自由を成立させることは困難なのだろうか? テッドは言います。自由よりも技術の方が強力だからです。

 

(125)テクノロジーと自由との間でバランスをとろうとしても、永くは続かない。なぜならばテクノロジーの方が社会の原動力としてはるかに強力であり、絶え間ない妥協を強いて自由を浸食していくからである。隣り合って住む二人が、それぞれ同じ大きさの土地を持っており、片方はもう片方の人間よりもずっと強かったとしよう。強い方の人間が、弱い方の土地を要求する。弱い方は拒絶する。そこで強い方は、「では妥協するから、半分をよこせ」といえば、弱い方は受け入れるしかない。しばらくたつと、強い方は再び土地を要求する。再び折衝し、弱い方の土地が削られる。こうして最期には、強い方が弱い方の土地をすべて没収してしまうのだ。これとまったく同じことが、テクノロジーと自由の間で起きている。

 

強力なテクノロジーの例として、テッドは自動車をあげます。私たちは産業技術によって「自動車に乗る自由」 が増大していくと思いがちですが、実際には「自動車に乗らない自由」が、モータリゼーションの進んだ地域では失われています。

 

(128)新しい科学技術のひとつひとつは、それ自体としては良いものに見える。電気、水道、長距離コミュニケーションのシステムなど、数えきれないほどの現代社会の利器はどうしたってわれわれに害をもたらすとは思えない。電話にしても例外ではない。電話のおかげで生活は便利になった。不便になった点はひとつもない。しかし……これらの技術の進歩の結果、普通の人間の運命を握るのはもはや当人ではなく、家族や隣人でもなく、政治家や企業重役、名前も知らない官僚や専門技術者となってしまった。これらの人々に、当人の意思など届きようもない。

産業技術は結局のところ、支配者に奉仕するわけです。

 

(129)テクノロジーが社会の原動力としてより強力であるもうひとつの理由は、われわれの社会のおいてはテクノロージは一方通行で進歩するのみ、別の方向には進みえないということである。何か技術革命があると、人々はすぐにそれに依存するようになり、もはやそれなしでは生きていけないようになる。 

技術は一方向的です。いまどきWindows 95やiPhone 4は使えないでしょう。

自由が技術に打ち勝つ日?

テッドは今後、テクノロジーが自由によって崩壊させうるチャンスが訪れるとしています。

(135)今後数十年の間、産業技術システムは厳しい制圧を受けるだろう。それは経済、環境、そしてとりわけ人間の行動(反抗、疎外、敵対心、その他の社会的、心理的障害)に由来する抵抗である。これらの圧力が、システムを崩壊させるか、少なくとも革命が可能なまでにシステムを弱体化させることを、われわれは願ってやまない。そのような革命が起こり成功したときこそ初めて、自由への希求がテクノロジーよりも強いのだと証明されるのである。 

このような日が本当にやってくるのでしょうか?

今のところ、産業技術はあまりにも盤石に思えますが。

まとめ

長くなってきたので一回区切ります。これで前半部は読み終わりました。

 

テッドの主張は、産業技術によって自由が奪われ、ひとびとの健康、特に精神的健康が損なわれているということです。

 

ユナボマー・マニフェストは、「爆弾テロリスト」が書いた文章とは思えません。産業技術批判として非常に読み応えのある文章です。思慮深く、慎重に論理を展開しています。あきらかに高い知性と、認識の深さを感じます。 

 

テッドの主張は、狂っているようには思われない。

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どこかに連れて行かれるテッド

 

前も書いたことですが、テッドはソローのように人里離れた生活を望んでいたのであり(たぶん、エンジン騒音のやってこない場所)、200年生まれるのが遅かったといえます。

 

テッドは、自分がたとえマニフェストを出版しても、自分の主張は認められないだろうとして(彼の主張では)、惨たらしい殺人をしました。

 

これは一面では事実です。現代では、どれほど客観的に言っても、ほとんどの哲学的な言説が行き渡らない時代でしょう。ひとびとは、学校教育やマスメディアによって、産業技術イデオロギーの檻のなかにいます。

 

もちろん、テロの殺害を正当化するわけではありません。しかしテッドが爆弾テロをしたのは、ある程度合理性があったことは認められる事実です。しかし、「理性あるテロリスト」などという存在が許されるでしょうか? 彼は狂人として、殺人鬼として、テロリストとして、閉じ込められなければならない。

 

それでも、今後、テッド・カジンスキーが再評価される時代がやってくるかもしれない。どうもそんな予感がします。

 

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