齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

ルソーの「自然状態」について

自然人は衝動的に暮らし、孤独だった。そして「同情心」を持っていた――ルソーは自然人について特異な考え方をしています。

 

図書館でルソーの「人間不平等起源論」を借りてきました。そこからルソーは初期人類についてどのように考えてきたのか? を引用していきたいと思います。

 

f:id:mikuriyan:20180701170359j:plain1766 portrait of Rousseau(引用元

 

彼の自然人観は、あきらかに奇妙な記述もありますが、現代考古学によって肯定されるような鋭い言及もあります。当時の限られた科学的情報のなかでルソーが考えた自然人を見ていきましょう。

 

 

社会は不平等であり、不自然である

ルソーは社会を不自然なものと考えました。

 

ルソーの根底にあるのは社会に対する強い批判的なまなざしです。ルソーの思想的核はつぎの一文に表されています。

人間社会を冷静で利害にとらわれない目で考察すると、それはまず強い人間の暴力と、弱い人間に対する圧迫だけを示しているように思われる。(人間不平等起源論 小林善彦・井上幸治 共訳 p.29)

 

つまりルソーは階層構造は不自然である、としているのです。

 

しかしながら、自然状態は殺し合いや奪い合いだった、という言説は、ホッブズなどに代表されるようによく見られたことでした。

 

そういった考え方は、「自然的」ではなく「社会的」であるとルソーは批判します。

 

どの人もたえず欲求、貪欲、圧迫、欲望、傲慢について語りながら、自分たちが社会のなかで得た観念を、自然状態のなかに持ち込んだのであった。つまり彼らは未開人について語り、しかも社会人を描いていたのである。(p.35)

 

つまり、私達は非文明においては、貪欲だったり抑圧的だったりすることはないというのです。それらは文明の産物であり、自然人はただ食欲や睡眠欲など、短期的な衝動を満たすだけでした。

自然状態の人間はどのようなものだったか

ルソーは前社会的な自然状態の人間をどのように考えたのでしょうか。

 

自然人は頑健だった

幼い頃から気候の不順と季節のきびしさに慣れ、疲労に耐える訓練を積み、裸で武器ももたずに他の野獣に対して自分の生命や獲物を守ったり、あるいは彼らから走ってのがれたりしなければならないので、人間は頑丈でほとんど変わることのない体質を作り上げるのである。(p.43) 

 ルソーによれば、自然はスパルタのような過酷な訓練を人間に課すので、弱者は死に、強く体格のいい人間のみを生かしたと考えています。

 

自然人は猛獣の脅威はあまりなかった

ホッブズは「人間は攻撃的だった」とし、別の学者は「人間は臆病でびくびくふるえていた」と考えていました。しかし、そのいずれでもないとルソーはいいます。

 

頑丈で敏捷で勇敢な未開人一人を、石と手頃な棒で武装させて、一匹の熊か狼と争わせてみるがよい。そうすればわかることだが、すくなくとも危険は相互的であり、そのような経験を数回積んだ後には、お互いに攻撃し合うのを好まない野獣たちは、人間が自分たちと同じくらい凶暴などを発見して、進んで攻撃することはあまりないだろう。……しかも人間は走れば彼らに劣らず活発で、木の上にはほとんど確実な避難所を見つけるので、どこで出会っても取るか捨てるかは自由であり、逃げるも戦う自由に選べるという有利さがある(p. 42) 

 

人間は猛獣に襲われることはあまりありませんでした。

猛獣は人間という厄介な獲物は相手にせず、うさぎや鹿を追うということです。犬に怯えてると襲われやすいのと一緒?

未開人には病気はなかった

医学がわれわれに提供できる治療法より、さらに多くの病気にわれわれがかかっているとすれば、どうしてそんなことになるのだろうか。生活様式のひどい不平等、ある人々には暇があり、他の人々は労働過重であること、われわれの食欲と情欲とを容易に刺激し満足させること、富める人たちに便秘症の栄養を与え、不消化で苦しめる凝りすぎた食物、貧しい人たちのひどい食事……夜更かし、あらゆる種類のゆきすぎ、あらゆる情念の節度のない熱狂、精神の疲労と消耗、あらゆる状態において人々が味わい、そのために魂が永久にむしばまれる無数の悲しみと苦しみ。……もしもわれわれが自然によって命じられた簡素で一様で孤独な生活様式を守ったならば、それらはほとんどすべて避けられただろう……病気の源泉はこのようにほとんどなかったのだから、したがって自然状態の人間にはほとんど薬の必要はなく、医者にいたってはなおさらである。(p. 45) 

 

というわけで、ルソーは病気は文明社会に顕著なものであり、自然状態の生活をしていれば健康に過ごせるとしました。かなり鋭い指摘です。

 

自然人は「味音痴」だった

自然人は味音痴でした。というのも彼らにとって、獲物を征服することと、他の動物の獲物となることから逃れることが第一の課題だったからです。

触覚と味覚はきわめて粗野になり、視覚と聴覚と嗅覚は非常に鋭敏となるだろう(p. 48)

そういえば、未開で育った子どもは冬場に真っ裸でも平気でいる、という話を聞いたことがありますがこれは本当なのかもしれません。

自然人は死を認識しない

彼がこの世界で知っている欲望は、食物と異性と休息だけである。そして彼が恐れる不幸は、苦痛と空腹だけである。……死とその恐怖についての知識は、人間が動物的な状態から離れるとき、最初に得たものの一つなのである。

死を認識できる動物はいません。ヒトでも、2才児くらいの子どもは死が認識できず、「眠りのようなもの」と考えます。たしかに、プリミティヴな状態において、「死」はなかったのかも?

自然人は農耕を拒絶する

人間でもけだものでも……最初にやって来たものによって荒らされてしまう畑を、心を悩ましてまで耕すほどのばかげた人間がいるだろうか。そしておのおのが骨の折れる労働のためにその生涯を過ごそうなどとは、どうして決心することができようか。すなわち自然状態が少しも消滅していないあいだは、このような状況のために人間が土地を耕す気にどうしてなれるだろうか。 

前社会的な環境では、わざわざ農耕をしようとすることはバカらしいことでした。この考え方は、「農耕は進歩ではない」とする現代の考古学の流れと一致しています。 

自然人は孤独だった 

ルソーのもっとも奇妙な考え方は、自然人は孤独だったとするものです。

原始状態においては、家も小屋もいかなる種類の財産もないので、おのおの当てもなく、しばしばたった一夜のために住居を定めたのである。また男と女はめぐり合いと機会と欲望のままに、偶然に結合した……そして彼らは別れるのも同じように容易だったのである。(p. 58)

 

かなり違和感のある記述です。現代考古学では、人は古来から集団生活をしてきたと考えています。つまり、個人というよりは集団的に生きてきた。

 

もっとも、ルソーも完全にバラバラになっていたと考えていたわけではありません。ゆるやかな付き合い(companionship)はあったと書いていたと思います……どこかで(失念)。

自然人の母親は子どもを忘れた

母親はまず自分自身の必要のため、その子供たちに乳をやるのであった。次いでその習慣から子供たちがかわいくなったので、その後は子供たちの必要のために彼らを養ったのである。子供たちは自分の食物を捜すだけの力をもつようになるやいなや、ただちに母親そのものを見捨てたのである。……彼らはやがてお互い同士それとわからないほどになった(p. 58)

ルソーが言うには、子供は自分で食事をとれるほど成長したら母親を捨ててどこかへ行ってしまいました。母親は、子供の顔を見ても自分の子供とわからないほどになります。 そんなわけないだろ? と思ってしまいますが……。狩猟採集民が子どもの主体性や自律性をかなり重んじるのはたしかであり、当たってる部分もあるのかも?

自然人は現代人より幸福だった

わたしは社会生活と自然生活のどちらが、それを享受する人たちにとって我慢できないものとなりやすいかを尋ねるのである。われわれは身のまわりに、自分の生活を嘆いている人しか見ず、幾人かの人たちに至っては、自分で自分の生活をできるだけ捨てている。……わたしは、自由な状態の未開人が、かつて生活を嘆いて自殺しようと考えたなどという話を、聞いたことがあるかどうか尋ねるのである。それゆえもっと謙虚に、どちらの側に真のみじめさがあるかを判断していただきたい。(p.66)

うーん、説得力がある。

そもそも、自然生活を送っている人はその生活しか知らないわけです。人生をありのままに受け入れ、生活を嘆くことなんてなかったでしょうね。

ルソー「ホッブズは自然状態に社会を持ち込んでいる」

さて、ホッブズ批判が書かれています。いいぞ、やれやれ。

 

自然状態はわれわれの保存のための注意が他人の保存にとって最も害にならない状態なのだから、この状態はしたがって最も平和に適し、人間にふさわしいものであったと言うべきだった。(p. 68)

(「われわれの保存のための注意が他人の保存にとって最も害にならない状態」とは、各々が独立しているがために、欲求を満たすために他者を侵害する必要がない状態のこと。)

 

ところが彼は、未開人の保存のための注意のなかに、社会の産物であって、そのために法律が必要となった数多くの情念を満足させたいという欲求を、不適当にも入れたことにより、まさにその反対のことを言っているのである。

……

そんなわけで、未開人たちは善人とは何かを知らないのだから、まさにそのために悪人ではないということができるだろう。なぜなら彼らに悪を行わせないのは、知識の発達や法律の拘束によるのではなくて、情念が静かで悪徳を知らないからなのである。(p. 68)

 つまり社会によって、情念がかきたてられ、悪徳を知ったときに人は悪になるということです。ちなみに「情念が静かで悪徳を知らない」は、英語だと“the peacefulness of their passions, and their ignorance of vice”になります。

自然人はあわれみの情を持っている

同胞の苦しむことを観るのが生まれながらにきらいなことから、人間が自己の幸福に対していだく熱情を緩和する原理……それは人間にとって……普遍的であり役に立つ徳であって、また非常に自然なものである(p. 70)

 

訳だとフランス語のpitiéが「あわれみの情」となっていますが、どちらかといえば「他者を傷つけたくない感情」というニュアンスが近いと思います。

 

自然人は生まれつきこの感情を持っているがために、善悪を知らなくとも、人間は怪物のようにはならないとルソーはいいます。

要するに、たとえ教育についてのさまざまな格率とは無関係であっても、およそ人間が悪を行えば感じる嫌悪の気持の原因は、精密な議論のなかよりも、むしろこの自然な感情のなかに求めなければならないのである。

 というわけで、ルソーは自然人は善でも悪でもないが、プリミティブな同情心を持っているという説を主張しています。

 

そしてその同情心は、自然人においては曖昧だが力強く、社会人では精細だが弱い、とルソーは書きます。

自然人には「恋煩い」はなかった

動物においても、メスの奪い合いは見られるが、ルソーは自然人は異性を渇望することはなかったとしています。

 

ルソーは雄鶏が雌を巡って争い合うことについて「帰納的な結論には少しもならない」とします。

 

これらの闘争の原因となりうるものとして、ただ雄の数に比して雌が珍しいこと、あるいは……一定の期間があって、そのあいだ雌がたえず雄の接近を拒むこと、これだけである。

 

この2つの場合のどれも人類には当てはまらない。というのは人類では一般に女性の数が男性の数よりも多く、そしてたとえ未開人のあいだにおいても、女性には他の種の雌のように、情熱の時期と拒否の時期があるというようなことは、かつて観察されたことがなかったからである。(p. 77-78) 

 

つまり、女性が十分に存在し、発情期が続くことから、自然人は女性を奪い合うことがなかった。これ、現代の動物学ではどうなんでしょう……?

 

まとめ

ルソーは自然状態の結論として以下のように書きます。

結論をつけよう。森の中を迷い歩き、生活技術もなく、ことばもなく、住居もなく、戦争も同盟もなく、同胞を少しも必要としないが、また彼らに危害を加えることも少しも望まず、おそらくは同胞のだれかを個人的に覚えていることすらけっしてなく、未開人はごくわずかな情念に従うだけで、自分だけでことが足り、この状態に固有の感情と知識の光しかもっていなかったのである。そして彼は自分の真の欲求だけを感じ、見て利益があると思ったものしかながめず、彼の知性はその虚栄心と同じように進歩しなかった。もしもたまたま彼が何かの発見をしても、彼は自分の子供さえも覚えていなかったのだから、それを伝えることはなおさらできなかったのである。技術は発明者とともに滅びたのである。教育も進歩もなかった。世代はむなしく重ねられていった。そしておのおのの世代は常に同じ点から出発するので、幾世紀もが初期の時代の粗野そのもののうちに過ぎ去っていったのである。(P.78)

 

このルソーの記述は現代考古学とかなり矛盾する点もありますが、300年前に書かれたことを考えれば優れた考察と言えるでしょう。彼は何も空想で書いたのではなく、旅行作家の書いた旅行記を読みふけっていましたから、なかなか的を射た意見も多い(少なくとも、ホッブズよりははるかに妥当な考え方です)。

 

当時の文明社会を批判的に考察し、プリミティヴな状態に光をあてた点では、コロンブスの卵並に画期的なことでした。

 

ルソーの自然状態の記述は、19世紀のロマン主義、20世紀のプリミティヴィズム芸術に強い影響を与えました。もちろん反発も強かった。ヴォルテールなどは、「ルソーは四つん這いの時代に戻りたいのだ」などと批判しました。

 

いずれにせよ、ルソーが自然人に関する説明で言いたかったことは、自然人は独立しており、壮健であり、他者に依存したり支配することなく、それなりに満足して生きていたということでした。

 

つまり、その反対をいえば、社会人は他者に依存しており、病弱であり、不満足に生きているということです。これは現代のプリミティヴィズム(≒反文明主義)の考えと一致します。

 

以前読んだのは岩波文庫でしたが、今回の中公クラシックスの方が読みやすいです。ただ読みやすいだけに冗長だし、訳としてどうなのかな、と思うところもいくつかありました。初めて読むにはよいと思います。

 

ルソーの人間不平等起源論については、もう少し考察してみたいと思います。