齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

齟齬

お知らせ:mikuriya-tetsu.comに引っ越しました

文化は暴力か?

文化はときに、暴力として働きます。

 

たとえば、体罰の議論。

「体罰は文化だ」と主張されるとき、「文化」によって暴力が正当化されます。

 

日本人論を調べていますと、それが「暴力を正当化する装置」であることを強く認識させられます。

  • 日本人は「暴力的に」こき使われているだけなのですが、それは「勤勉な日本人」という言説で正当化されます。
  • 日本人は教育を通じて批判精神と自立心を奪われ、自由な思考や行動ができなくなっているのですが、それは「集団思考」とか「和の精神」と見なされます。
  • 日本人の過労死は、実際は「殺されている」のですが、「自殺文化」とみなされることがあります。

 

日本人論は科学とも宗教ともつかないのですが、ひとつの文化です。

文化が暴力に奉仕するような構造が、あきらかに存在します。

  

直接暴力、文化的暴力、構造的暴力

調べてみると、「文化的暴力」はすでにノルウェーの社会学者、ヨハン・ガルトゥングによって提唱されていました。

「暴力の三角形」が有名みたいですので、下記サイトのまとめより転載してみます。

WHAT – Direct, cultural and structural violence

 

f:id:mikuriyan:20180524234946j:plain

直接暴力は氷山の一角(引用元

 

直接暴力:氷山の露出部分。その効果の大部分が可視的である。主に物理的な暴力だが、すべてがそうではない。憎悪や心理的なトラウマ、「敵」という概念の誕生なども同等に深刻な影響を及ぼす。一般的には直接暴力が暴力のなかでも最悪だと考えられている。それは可視的であると考えられており、対処が容易だからだ。しかし直接暴力はなにかから生まれたものであり、暴力の起源ではない。直接暴力は、氷山の隠れた部分である文化的暴力や構造的暴力のように、多くの人々には影響を与えない。

 

文化的暴力は無数のメディアによって表現される象徴的な暴力である。宗教、イデオロギー、言語、芸術、科学、メディア、教育、等。これらは直接暴力や構造的暴力を正当化し、被害者の反応を禁じたり、抑圧するはたらきがある。文化的暴力は、人類を互いに破壊しあい、それによって利益を得ることをも正当化する:国家や宗教の名において暴力を行うことは奇妙なことではない。学校やその他の機関において、暴力の文化が歴史を戦争の連続として描くことによって伝達・再生産される。両親の権威や、男性が女性に対して持つ権威を疑うことなく抑圧してしまうことは、よくあることである。マスメディアは軍隊を、国際的な摩擦の主要な解決手段として扱う。

人生は常に暴力の蔓延する空間に満たされ、暴力はすべての地域に、すべての段階に現れる。

 

構造的な暴力は、社会階層化の結果として、生存、福祉、アイデンティティ、自由などの基本的な人間の必要を満たせないときに起きる。これらはそれらの必要を満たせないような物理的かつ組織的な構造によって生じ、三つの暴力のなかで最悪のものである。

構造的な暴力は、間接的な暴力であり、ときに意図せずに起きることがある。たとえば飢餓を起こすことは、その目的によって起きたことではなく、資本主義の経済政策と富の不公平な分配の結果である。このことがしばしば、構造的暴力の理由が見えなくし、対処を困難にする。

 

 ……

ガルトゥングによれば、直接的暴力の発生はしばしば構造的暴力に関係しており、文化的暴力によって正当化される。多くの暴力は、抑圧された集団や、社会的不正義の関係する権力乱用の結果である――資源の不十分な供給、個人所得の巨大な不平等、社会福祉へのアクセスの制限。そして言説によって裏づけされる。

 

たとえば上司がパワハラしてくるときは

直接暴力:上司による暴言 

文化的暴力:上司には従わなければならない、暴言は「愛の鞭だ」というようなイデオロギー

構造的暴力:資本主義的なヒエラルキー構造

といった感じでしょうか。

 

ちょっと驚いたのですが、戦争を強調する「歴史」は文化的暴力だという記述です。

 

たしかに、歴史は「戦争史」として描かれます。あたかも人間は奪いあい殺しあって生きてきたかのようです。こういった歴史観はホッブズ的な世界観をひとびとに植えつけ、軍国主義の暴力や、資本主義の搾取と被搾取を正当化しているのかもしれません。(だれが戦争を望むのか - 齟齬

 

また、構造的暴力が最悪の暴力であるという点も注意が必要です。戦争は国家による自国民、他国民の大量虐殺でしたが、その罪が問われることがありません。戦争は人間の本性であり、「私たち」の責任であると文化的に正当化されます。

 

構造的暴力は次のようなものもあげられます。徴税は国家による強盗ですが、その倫理性が問われることはほとんどありません。学校は神話化されており、学校の持つ洗脳的、暴力的な側面は人々に無視されます。

 

f:id:mikuriyan:20180525003100j:plain

An angel leading the Crusaders to Jerusalem(天使が十字軍をイェルサレムへ導く) - Gustave Dore

「文化」を警戒しなければならない

このように考えると、文化というものは基本的に暴力に奉仕するものではないのか、とすら思えてきます。

 

文化は国家が生産するものです。あらゆる国家Nation stateには、「独自の文化」が必要です。共通する文化の上に国家がなりたつのではなく、国家が文化を供給します。 

 

「国民的文化」は盛んに生産されますが、その一方で近代化以前の自生的な文化、たとえば地域的な文化(方言や風習)は消えていくことになります。

 

本当の文化は、国家に都合のよい「国民文化」で上書きされていきます。現在「日本文化」とされるもの――アメリカ文化でも、イギリス文化でもそうですが――は、大部分がそういった人工的な、偽物の文化なのではないでしょうか。

 

となれば、日本文化の大部分は暴力と関係しているのかもしれません。文化と暴力がどこまでイコールになるのか、もう少し調べてみたいと思います。

 

なんにせよ、「文化だからしょうがない」というようなおためごかしは、一度疑ってみる必要がありそうです。