齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

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隠遁は自由ではない byプルードン

「富んでいる者が神の国に入るよりは、太い綱[他の訳に従えば、駱駝]が針の穴を通るほうが、もっとやさしい」(マタイ福音書

 

[私はいつも、イギリスやアメリカやドイツやスイスの信心深い金持ちのブルジョワプロテスタントが、このくだりを読む図を想像するのであるが、彼らにとってこの言は、有無を言わさぬものであり、さぞかしおもしろくないものであるだろう」(プルードン「神と国家」)

 

物質的富への渇望と、不死の魂の救済とのあいだには、絶対に相容れないものがある。そこでこの場合、霊魂の不死を少しでも信じる人は、わずか数十年の物質的快楽のためにそれを失うようなことをせず、むしろ社会が与える安楽さや贅沢を見捨て去り、隠者たちが行ったような仕方で根源的に生きることによって、自分の霊を永遠に救済するほうがよいのではないか。(同)

 

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Skulptur VIII (1989)Jan Groth  

隠遁については、以前シッチャカメッチャカ書きました。(→隠遁 の検索結果)。が、プルードンの「神と国家」に隠遁に関する記述があったので、もう一回考察してみます。

 

プルードンによれば、しかし、隠遁では人は自由になれないそうです。

 

 

 

……孤立した人間は、自分の自由を自覚することはできない。人間にとって自由であるということは、他の人々、彼をとりまくすべての人によって、自由な人間として尊重され、認められ、またそう取り扱われることを意味する。したがって、自由とはけっして孤立ではなく相互作用を、排除ではなくして結合を意味するのだ。さらに、各人の自由は、あらゆる自由な人間たち、兄弟たち、平等者たちの意識のなかで、自己の人間性や人間としての権利が反映されることを意味するものにほかならないのである。

 

この考えはなんだかすごく斬新に感じました。たしかに、「あなたは好きにやっていいよ。あなたの自由は、私が保障するから」というようなことを言われたときには、湧き上がる自由を感じる気がします(なかなかあることではないですが)。

 

ほんとうの自由は、そういった相互の信頼、相手への/相手からの自由の保証にあるのかもしれません。

 

プルードンは以下のように続けます。

 

私は、他の人々と向き合い、他の人々と交わっているときだけしか、自分自身が自由であると感じることはできないし、またそう言うこともできないのだ。下等動物を前にして、私は自由でもないし、人間でもない。なぜなら、この動物は私の人間性を理解出来ないし、したがってまた、これを承認することなど思いもよらないからだ。私が私自身自由であり、人間であるのは、私が私をとりまくあらゆる人々の自由と人間性とを認めるかぎりにおいてにすぎない。彼らの人間性を尊重することによってはじめて、私も自分の人間性を尊重できるのだ

 

「ここにも、あそこにも、自由はないのだ」と逃げだした先には、ほんとうの自由はないのかも。


私たちは自由というと、あらゆる紐帯から逃れることを想起します。そして、現代人にとって、最大の紐帯は人間関係となっています。現代社会は、大半の人間関係が腐っています。双方が相手を警察のように監視することを前提になりたってますから……。

 

でも、ほんとうの人間関係は、相互に相手の自由を尊重するような関係なのかもしれません。そういう人間関係は僅少ですが……。

 

私が真に自由であるのは、私をとりまく万人が、男であれ女であれ、同等に自由である場合にすぎない。他人の自由とは、私の自由の制限であったり、否定であったりするどころか、これとは逆に、私の自由の必要条件であり、その確証なのだ。私自身が真に自由になれるかどうかは、ひとえに他の人々の自由にかかっているのであり、したがってまた、私の周囲の自由な人間の数が多くなればなるほど、そして彼らの自由が深くかつ広くなればなるほど、私の自由もよりいっそう拡大され、より深く、より十分なものとなるのだ。

 

プルードンの自由観は独特ですが、この一文については「禿同」です。他人が不自由では自分も自由ではないです。

 

プルードンを読んでいたら「禿同」ポイントがたくさんあってビビります。今日はマックのコーヒーを飲みながら、興奮しっぱなしでした。

 

絶対的な意味ではなく、単なる相対的意味ででも、自立して願望し、自主的に思考する、と言えるような人間は、千人のなかでかろうじて1人あるくらいなものであろう。無知な大衆だけでなく、特権的な上流階級においても同様に、圧倒的な数の人間は、彼らのまわりのすべての人が望み考えることしか、望み、考えようとはしないのだ。おそらく彼らは、自分が自主的に望み独力で考えている、と信じていることであろう。しかし実際のところは、彼らは他人の思想や意志を、ほんのすこし変えるだけで盲従的に旧套墨守的に反復しているにすぎないのである。諸個人のこうした盲従、旧套墨守、いつ果てるともしれない陳腐さ、反逆的な意志力の欠如、自発的な思考の欠如、これら一切合財が、人類史の発展に見られる嘆かわしい緩慢さを生み出す主要な要因なのだ。

 

キリスト教徒は、予言者であることはできよう。聖人たることもできよう。その他、聖職者、王、将軍、大臣、官吏、何らかの権威の代表者、さらに憲兵、死刑執行人、貴族、搾取するブルジョワまたは奴隷化した労働者、圧制者あるいは被圧制者、拷問する人あるいはされる人、主人あるいは使用人――キリスト教徒が、これらのいずれかであることは可能である。しかし彼は、自分が人間であると主張する権利は持っていないのだ。それというのも、人間が真実人間となるのは、彼があらゆる人の自由と人間性とを愛し尊重するときだけであり、他方、自分の自由と人間性とが、万人によって尊重され、愛され、育成され、創り出される場合でしかないからである。

 

なんていうか……アナーキズムの思想家って、プルードンに限らず人格的に好きなんですよね。彼らは基本的に善良で誠実。知的にも透徹しています。やっぱり、哲学でもなんでも、各々の個人の人格を「好きかどうか」って大事なポイントです。波長が合うかどうか、です。

 

なにかあればご相談を 

「隠遁」について質問してくださった質問者さんからはその後メールも頂き、嬉しい限りです。メール無精なので返信していませんが、ちゃんと読んでいます。

 

もし、私に「こんなことが聞きたい」「こんなことが知りたい」ということがあったらご相談ください……。ほんと、なんでもいいです。

 

連絡フォーム。ブログにて解答します。