齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

天才として生まれることの苦悩

ぶっちゃけていえば、日本で天才が生まれたとしたら……それは悲劇でしかありません。

 

「受験の天才」ではないですよ。天才ってのは、権威の与える考えではなく、「自分の考え」をもってしまうこと。世間の求めるものではなく、自分のなりたいものになろうとすること。

 

これらはひじょーに大きな危険を伴います。

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The Loner | Sticky Monster Lab

 

バートランド・ラッセルの「幸福論」を読んでいたら、やっぱり天才は大変だなあ、という文章がありましたので、引用してみたいと思います。

 

特定の趣味と信念の持ち主は、あるグループ内で暮らしているときは、ほとんどはみ出し者であるかもしれないが、別なグループでは、まったく普通の人間として受け入れられる。大部分の不幸は、特に若い人たちの間では、このようにして生じる。ある若い男性なり女性なりが、どうにかして、一般に広まっている思想に触れたとする。ところが、こういう思想は、彼らが生活している特定の環境ではご法度であることを発見する。若い人たちは、とかく彼らの知っている環境のみが世の中全体を代表しているかのように考えやすい。彼らは、まったくのつむじ曲がりと思われるのが怖くて公言する勇気のない見解も、別な場所や別なグループでは、今時ごくあたりまえのこととして受け入れられる、などということは到底信じられない。このようにして、世の中を知らないために、ときには若いときだけ、往々にして一生涯、不必要な不幸のかずかずを耐え忍ぶことになる。このような孤立は、苦痛の種になるばかりではなく、敵意ある環境に対して精神的な独立を維持するという不必要な仕事に、膨大なエネルギーを浪費させることになる。そして、九分九厘、思想をとことんつきつめて考えることをこわがるようになる……

 

ほとんどすべての人にとっては、幸福のために同情的な環境が必要である。もちろん、大多数の人びとにとっては、彼らがたまたま置かれている環境は同情的である。彼らは若いときに、一般に行われている偏見を吸収し、自分の周囲に存在している信念や習慣に本能的に適応していく。しかし、大部分の少数派――その中には、いやしくも知的あるいは芸術的な才能のあるほとんどすべての人々が含まれる――にとっては、こうした、黙って従うといった態度をとることはできない。たとえば、小さな田舎町に生まれた人は、ごく幼いころから、知的卓越に必要なあらゆるものに対する敵意にとりかこまれている。まじめな本を読もうとすれば、ほかの少年たちには軽蔑され、先生からはそんな本を読むと落着きが失われると言われる。美術が好きであれば、同年輩の連中からは男らしくないと思われ、年長者からは不道徳なやつだと思われる……

以上のような理由で、特にすぐれた才能のある青年男女にとっては、思春期はきわめて不幸な時期である。もっと普通の仲間にとっては、思春期は、陽気さと楽しみの時期であるかもしれない。しかし、才能あるものとしては、もっとまじめなものを求めている。しかし、そういうものは、彼らがたまたま生まれついた特定の社会環境では、年長者の間にも、同年輩の仲間の間にも見つけることはできない。

 

非常に多くの場合、なくもがなの内気さのために困難が必要以上に悪化する。……犬は、人々が軽蔑してあしらうときよりも、犬をこわがっているときのほうがいっそう声高にほえ、いっそう咬みつきやすい。そして、人間の集団も、これと同じ特徴を多少持っている。集団をこわがっている様子を示せば、あなたは、絶好のえじきになる。一方、無関心でいるなら、集団は自分の力を疑いはじめ、ために、あなたのことをかまわないでおいてくれる見込みがある。

 

けれども、自分の趣味や意見のために集団に共鳴できなくなっている多くの人々にとっては、こうした、非難をかわす方法も役に立たない。たとい表面的に同調したり、なんとかして鋭い論争点を避けたとしても、共鳴していないために気持ちが落着かず、ために、争い好きな態度をとることになる。自分の属している集団の慣習としっくりいっていない人たちは、そこで、とかく怒りっぽく、不安で、のびやかな陽気さに欠けた人間になりやすい。こうした当人たちにしても、彼らのものの見方が変だと思われないような別な集団に移し変えられたとしたら、性格ががらりと変わるように思われる。きまじめで、内気で、ひっこみ思案であったのが、陽気で、自信たっぷりになるかもしれない。堅苦しかったのが、人当たりがよく、おおらかになるかもしれない。自己本位であったのが、社交的で外向的になるかもしれない。

 

今日のような精神分析の時代には、だれでもいい若い人が環境としっくりいかないようなときには、その原因は何か心理的な不調にあるにちがいない、と考えるのが普通である。私の考えでは、これは完全な誤りだ。

 

社会意識が強く発達しすぎたあげく、そういう人たちが自分の意見のゆえにかもし出された社会的な敵意におびえるようになるのは、望ましいことではない。

 

……私見によれば、専門家の意見は別として、一般に、重大な問題でもささいな問題でも、他人の意見が尊重されすぎているのではないか。概して、飢えを避け、投獄されないために必要な限りで世論を尊重しなければならないが、この一線を越えて世論に耳を傾けるのは、自ら進んで不必要な暴力に屈することであり、あらゆる形で幸福をじゃまされることになる。

 

世評に対する恐れは、他のすべての恐れと同様に、抑圧的で、成長を妨げるものである。この種の恐れが強く残っているときには、いかなる種類の偉大さをも達成することはむずかしいし、真の幸福を成り立たせている精神の自由を獲得することは不可能である。なぜなら、私たちの生き方が、たまたま隣人であったり親戚であるような人たちの偶然の趣味や希望によって決まるのではなく、私達自身の深い衝動から生まれてくることが、幸福にとって不可欠だからである。

 

←ここまで引用してなんですが、そんなに好きな本ではないです。

 

世界は広い。あなたは一人ではない

私もこのとおりの人生を送ってきたな~と思います。(才能があるかはともかく)

  

ラッセルの言うとおり、「不必要な不幸のかずかずを耐え忍」んできました。おそろしい徒労でした。当時の私にとって、生きることは監獄の中に暮らすことと同じ。もしもいま同じような苦労を味わえば生えぎわが何センチ後退するかわからない。

 

今は自分がアナーキストだと知っていますから、自分のような考え方はべつにおかしくないんだーと知ることができます。日本において、私はまったくの異端。でもアナーキズム界隈では私はまったくの常識人です。

 

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いっておきますが、私はアナーキズムに所属する自分が好きなのではないのです。ただ、自分と同じ考えの人がたくさんいる。この事実にほんとうに安心できるのであります。まず第一に人は人間になる。アナーキストとなるのは、その次である。とだれかが言っていましたが――

 

ゲイの世界と似ているかもしれません。「クマみたいなおっさんのふんどし姿たまらないよね~」と言ったときに、「たまらないよね~」と返ってくる場空間。私はゲイではないのですが、東京がわりと好きなのは新宿二丁目のようなゲイ・コミュニティがあるからで、ゲイ・コミュニティと政治的マイノリティは深いところで繋がっている気がするのです。

 

たぶん深い絶望を味わったことのないゲイはいないでしょう。そして、それでも自分を信じぬいたのもゲイでしょう。その点はアナーキストと似ている気がします。

 

結局私がこういったしょうもないブログを続けているのも、自分が思春期だったときに今の私のようなおっさんがいたらな、と思うからです。日本では、アナーキズムに辿り着くのは、ほんとうに、ほんとうに……困難ですからね! 

  

あらゆる政府にとってもっとも危険な人物は、迷信やタブーに関係なく自分自身で物事を考えることのできる者である。彼が自分の住んでいる政府は不正直で、狂っていて、我慢ならないという結論にいたることはほとんど避けられない。もし彼がロマンティックであれば、それを変革せんと試みるだろう。そしてもし彼がロマンティックでなくても、彼が他者に自分の不満を広めることは必至である。 H. L. Mencken

 

個人はつねに民族に圧倒されないよう抵抗しなければならなかった。もしそれを試みれば、しばしば孤独になり、時に恐怖を感じるだろう。しかし、自分自身を所有するという特権には、どれほど支払っても高すぎるということはない。 ニーチェ

  

異端とは、思想の自由のもうひとつの言葉に過ぎない。Graham Greene