齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

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隠遁とその先

隠遁について薄ぼんやりと考えている。

 

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Bai Jin, 1388-1462

 

「梵我一如」。

究極の認識が、「自己=世界」であるということはさまざまな宗教で指摘されている。

宇宙が自我と世界の両極として現れてくる。
人間精神の努力はすべて、この対立の橋渡しの行為に他ならない。

とシュタイナーは言う。

 

世人は世界の中に生き、自己の内奥を省みない。

一方で隠者は自己に執着し、世界を顧みない。

 

テーゼとしての世人。アンチテーゼとしての隠者。その止揚としての覚者となるべきか。

 

 

なんとなく、十牛図を思い出す。

老僧、三十年前、未だ参禅せざる時、山を見るに是れ山、水を見るに是れ水なりき。後来、親しく知識に見(まみ)えて箇の入処有るに至るに及んで、山を見るに是れ山にあらず、水を見るに是れ水にあらず。而今(しこうしていま)、箇の休歇(きゅうかつ)の処を得て、衣前、山を見るに祗(た)だ是れ山、水を見るに祗(た)だ是れ水なり。

人は隠遁し、再び戻ってくる。しかし彼は、元通りの人間ではない。精神が深化している。

 

 

シュタイナーはこうも言っている。

 

あなたの求めるどんな認識内容も、あなたの知的財宝を蓄積するためのものなら、それはあなたを進むべき道からそらせる。しかしあなたの求める認識内容が人格を高貴にし世界を進化させるためのものであるならば、それは成熟への途上であなたを一歩前進させる。

 

知的財宝は功利的なものにとどめてはならない。

 

結局、私たちが暗闇のなかで掴んだものは、人間たちや世界のために役立てなければならないということだろう。

 

ニーチェは1873年にこう書いている。

哲学者というものは一つには自分のために、次には他の人々のために存在している。まったく自分自身のためだけで存在することは不可能だ。なぜなら彼も人間である以上、他の人間との関係をもっているからーー彼が哲学者であるかぎり、こうした人間関係においても哲学者でなければならない。たとえ隠者のように他の人間から隔絶していても、それによって哲学者は教えを、範例を、垂れているのであって、他の人間たちにとってもやはり哲学者である。どんな態度をとろうとも、哲学者という存在には人間に向かう一面があるものだ。(ニーチェ全集 四巻)

 

隠者が暗闇で掴み取るのは、自分の本性と、その求める仕事である。

 

隠遁の次には、世界へのはたらきかけが必要だと言えそうだ。