齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

隠遁を超えて

隠者ってどうなのか? シリーズ第四段。

 

このテーマを長く続けているのは、読者に問われたからというのも理由のひとつだが、最近の私個人の変化とも関係しているからである。

 

かつて私は隠遁に強く恋い焦がれていた。20代の大半は、隔絶された田舎での隠遁生活を夢みていた。だけど今はそうでもないし、かえって社会的なことに関心を抱いている。それはなぜかを書いてみたいと思う。

  

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Carl Spitzweg The Poor Poet · 1837

世界を殺すか、自己を殺すか

 

私が隠遁を望んだのは、あまり積極的な理由ではなかったと思う。

 

私はきわめつけの社会不適合者だった。世間や社会は理解のできない、恐ろしい怪物だった。いじめられたし、暴力を受けた。異常者とか、障害者とか、病者、犯罪者のように扱われた。 

 

私にとって社会は針のむしろだった。つねに神経が苛立ち、生きづらくてしかたがない。「ふつうの人」になろうと努力したけど、どうしても無理だった。

 

だから不登校児が引きこもりになるのと同じように、社会のすべてを憎悪し、背を向けるようになった。すべてを退けて、自己と向き合っていた。


そんな生活を何年か続けてきたのだが……あれこれ……人に好かれたり、嫌われたり(私は孤独だったが、完全な隠者の生活をしたことはない)、仕事をしたりしなかったりという出来事があるなかで、自分が病者でも劣等者でもなく、まっとうな人間だと気づいた。

 

そして次のような結論に至った。私一人が間違っているのではなく、私以外のすべて……世界のすべてが間違っているのだ。控えめに言って、これは革命的な転回だった。世界がひっくりかえったのだから。

 

私は怪物だと思っていた社会を、じっくりと見つめてみることにした。そして「社会」は、思ったよりも単純で……ほんとうは非常に脆弱なものなのだと知った。異常で病的で犯罪的なのは、社会の方なのだと知ったのである。

「政治」というもの 

同じ質問で、私が文章家になりたいと願ったり、いくらか向社会的なのはなぜか、と問われた。文章家になりたいというのは昔からの願いだけど、たしかに社会的な問題に首をつっこむことになるとは自分でもほとんど考えていなかった。

 

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Banksy 2000

  

「政治は醜い」と思う人がいる。たしかにマスコミが流す「政治」はくだらない。反体制派はどうかといえば、五十歩百歩のくだらない連中である。

 

政治なんて考えないことが人としてまともだと思われているが、これは無理のない話だ。というのも、実のところ、選挙とか、議員とか、憲法、投票、国会は政治ではない。あくまで「政治のシンボル」でしかない。実は政治の本質は、「政治」には存在しないのだ。これは日本では顕著だけど、諸外国ではどうなのかわからない。

 

それでは「ほんとうの政治」とは何か。このことを考えるためには、自分や他者に働いている権力を知る必要がある。

 

権力とは、本人の意志と無関係にそれを行わせることである。たとえば町内会に入らされ、しちめんどくさいゴミの分別を強いられるのも、低賃金で働いたり、サービス残業をさせられるのも、そこに権力が働いているからである。

 

生きやすい社会を実現するよりも、努力や自己啓発書、抗うつ剤や安定剤で自分の精神を変えようとする。人は社会に適応できないとき、社会を変えるよりも、自分を変えようと思う。これも権力の働きである。

 

私たちは、巧妙に武装解除されている。

 

普通人びとは、自分たちが耐えている苦難を、歴史的変化や制度的矛盾という文脈の中で把握してはいない。自分たちが享受している安楽を、そこで生きている社会の巨視的な変化には、結びつけて考えないのが普通である。かれらは自分たちの生活のパタンと世界史の進路との間に、精妙な関係があることにほとんど気付かない。したがってこの関係が、自分たちの現在と未来にとって何を意味し、また自分たちが主体的に参加できるかもしれない歴史形成にとって何を意味するのかをもしらない。(社会学的想像力/C・ライト・ミルズ)

 

私はこのミルズの考え方に強く共感する。政治は私たちが考える以上にアクチュアルだ。

 

政治的主張とは、ふつう考えられるよりもはるかにプリミティブな衝動である。したがって自然的で、本能的なのだ。あれこれ難しい理屈はかえって不要であり、「私はそれは望まない」「それは間違っている」「私はそれを嫌悪する」と主張するだけである。

 

かつて、奴隷制封建制で支配構造が明白だったときは、このような主張は容易だった。支配されている限りは、自分の不幸や貧困は支配者のせいだ。しかし近代国家は、搾取が巧妙になっている。つまり、自分が不幸で貧乏で働きづめなのは、「あなたのせいだ」とされている。

 

私が孤独に引きこもらず、社会的な関心を持つのは、特別な事情があるのではない。かえって、それを阻害する迷妄がなくなったからである。政治に関心をもつのは自然なことだ、と自分では思っている。

 

しかしながら、隠遁はすばらしい

私はこれまで隠遁について批判的に考えてきた。隠遁は不自然だ、隠遁は目的とはならない、隠者は自己執着だ、云々。それでも、隠遁それ自体のもつ意義は十二分に認めている。

 

私は孤独に過ごした期間が無駄だったとは思わない。むしろ、もっとも有益な時期だったように考えている。「孤独は天才の学校だ」と言った人がいるが、そのとおりだろう。

 

隠者となるべき人は、私の文章も「つまんない、ゴミのような人が書いた駄文」と感じるだろうし、それでよいと思っている。