齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

隠遁は最終目標ではない

私は隠者を愛する。それは彼が、いつか豊かな果実を実らせる種子だからである。もし地中に篭ったままなら、私は彼を愛せないだろう。

 

 というようなことを書いた。

 

隠遁についてさらに考察する。

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「沈黙の声」より

神秘主義界隈で著名なブラヴァツキーの「沈黙の声」を読んでいたのだが、そこに隠遁についての示唆があるような気がした。 

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明らかにただものではない、ブラヴァツキーおばさん。

 

以下はジェフ・クラークの訳。

 

汝の魂が暖かい日の光を浴びて微笑み、肉と物質の蛹の中で喜び歌い、幻影の楼閣に閉じこもって泣き、大師と汝とを結んでいる銀色の糸を断ち切ろうともがいているのなら、おお弟子よ、汝の魂は地に属するものであると知れ。

 

これは普通の人の状態。「ウェーイ!」「恋しちゃった☆」に代表される、権力が欲しい、金が欲しい、おいしいものが食べたい、女が欲しい、男が欲しい、若さや健康が欲しいとかの状態。たぶん世の中のほとんどの人は、この状態で終わると思う。

 

汝の目覚めかけた魂が世のざわめきに耳を傾け、大いなる幻影の吠える声に反応し、苦しみの炎で燃える涙を見て驚き、苦悩の叫び声で聞こえなくなったとき、恐れおののき、亀が恐怖で甲羅に閉じこもるように自己中心へと向かうならば、おお弟子よ、汝の魂は沈黙する神の宮となるにはふさわしくないと知れ。

 

これが隠者段階。「目覚めかけた魂」ってのは、「内なる自己」 のようなものだろう。世間は恐ろしい。醜い。愚かだ。いじめがある。搾取がある。殺人がある。引きこもろう。安全なところに引きこもって、自己に耳を傾け、自己を探求しよう。……それはダメだよ☆とブラヴァツキーは言う。

 

汝の魂が思い上がり、その安全な隠れ家から滑り出て、守られていた宮から離れ、銀色の糸を伸ばしながら突進し、空間の波に映っている己の姿を見て「これが私だ」と言うのなら、おお弟子よ、汝の魂は妄想の 蜘蛛 の巣にとらわれていると言明せよ。

 

隠遁していた彼だけど、ちょっとした能力や知恵、霊力のようなものを身につけて、ばったばったと社会権威的なものを斬り棄てるような、「俺すげー」という状態(たぶん)。これもダメですよ、と「沈黙の声」は言う。

 

結局、どうすればいいのか。

 

大法は言う、「全我を知るためには、まず真我を知るべきだ」と。真我を知るためには、自我を無我に、存在を非存在に譲らなければならない。そうすれば汝は、 大鳳 の両翼の間に 憩うことができよう。永遠なるアウムであるハンサの、不生不滅の翼の間で休むのはどんなに楽しいことか。

 

自己に執着することを辞めよ、ということらしい。

 

たぶん、俗な生活、隠遁、自己執着……。賢者と言われる人びとのほとんどは、この段階を辿ってきたのではないかと思う。最終的には「無我の境地」に。

 

「沈黙の声」では、隠遁はダメだよ、という点でもっとわかりやすい言及がある。

 

俗衆を見下して人里離れた暗い森で座禅を組んだり、木の根や草の葉を食べたり、ヒマラヤの雪で渇きをいやしたりすることで、究極の解脱という大いなる目的を達成できると信じてはならない。

 

わかるなあ。私も世間の人を見下してた。まあ、今も見下しているかもしれないが、以前に比べれば「普通の人」を認めるようになった。

 

究極的には、世人のために貢献する方が優れている、と「沈黙の声」は言います。

 

より高い衣ではなくニルマーナカーヤの衣をまとうのは、自分一人の永遠の至福を放棄して、人類の救済を援助することである。涅槃の至福に達したにもかかわらずそれを 棄てることは、放棄の道の最上で最後の段階である。

 

弟子よ、これこそ隠れた道である。完成した諸仏はこの道をとり、弱い者たちの「小我」のために大我を犠牲にした。

 

「悟りに全フリ」ではなく、世間の人びとのために働くのが本当の「道」だというそうで……。もっとも、これはスーパーハイクラスな段階の話なので、私たちがどうこうという話ではないのですが。

 

やはり、隠者というのは「中間体」なのではないでしょうか。隠遁生活は理想ではなく、乗り越えなければいけない段階……と私は認識しています。

 

 

 

もう少し隠遁については記述します。