齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

隠居生活は幸福なり也

隠居についてどう思うか」というようなメールを頂いたので考えてみたいと思う。

 

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隠居生活――甘美な響きだ。究極の自由がそこにあるという気がする。何をするのも自由。一日中寝ていてもいいし、知的探求をしても、瞑想をしても、猫と遊んでいてもいい。

 

私自身、隠遁に強くあこがれて生きてきた。大学を卒業して田舎の小企業に就職するとき、研究室の教員に対し、「あとは引退生活です」と言った覚えがある。また、その企業を退職して10ヶ月はエセ隠居生活をしていた。「エセ」なのは、結局ブログを書きまくっていたからである。

 

隠居にあこがれてきた私だが、しかし結論から言えば、隠居生活は言われるほど良いものではないと思うようになった。

 

ニーチェvsストア派

西洋哲学における隠居生活については、ストア派とニーチェがもっともわかりやすい。

 

ストア派は苦痛や喧騒を逃れた静かな環境で理性を追求することを良しとした。彼らにとって、真理とは自己のなかにすでにあるものであり、社会的な関わりや集団生活はその真理探求を妨害するものだった。ストア派の思想はキリスト教に強い影響を与えた。

 

一方でニーチェは、苦痛も快楽も清濁併せ呑むことを是とした。彼はストア派をハリネズミの硬い皮膚のようだと批判した。この比喩が意味するのは、ストア派は社会から隠遁し、人生の悲劇や苦難から逃れることに成功している一方、人生の真の快楽や愉悦を感じる能力も失ってしまっている。「真に強い人間は、ストア派のような生き方を望まない」とニーチェは言う。

 

私はニーチェの言うことが正しいと思っている(セネカは大好きだけど)。というのも、「社会の腐敗や刺激から逃れて生きる」ことは、ある種の強さというよりは、何らかの弱さのように感じられるからだ。

 

凡人は無論、弱いのである。彼らは人と関わらなければ生きていけないと怯えている。人に気に入られること、人に有能だと思われること、社会の与える役割に忠実であることに執着している。

 

隠者はどうだろうか。彼は俗世を厭み、世人と交われば自分の精神が汚れてしまうと思っている。自分の知的能力が、猥雑な人びとや都市住民や騒音や広告によって妨害されると考えている。彼は人がいるところでは自由になれない、と考えている。この意味では、どうも隠者というのは弱い存在で、逃げている人のように感じる。

 

Aという対象を追い求めるのも、Aを忌避するのも、同じ構造である。本当の知者は(ニーチェの言う強者)は、やはり、すべて、つまり生そのものに対し「然り」と言える人なのではないかと思う。 

 

何もかも得てから隠者でも遅くない

私はインターネットを通じて、おそろしく寂れた田舎の、家賃5000円の小屋にたった一人暮らす隠者に会ったことがある。隠者といっても、当時28歳。私と同年齢だった。彼とは3,4時間ほど話し込んだ。非常に印象に残った出会いだったが、そこで思ったことは、彼はこのままで本当によいのだろうか、ということだった。

 

私は彼と話している間、ある問いをしたい衝動にかられた。つまり、「セックスはしたくないのか?」ということだ。もし彼がシッダールタのようにセックスし放題の環境に育ったのであればそのような問いは簡単だった。しかし彼は見た限り遊び人ではなく、恋人ができたことがないと言っていた。

 

私が大いに疑問に思ったのは、つまり……。彼を/彼が心底愛する女性が現れて、セクシュアルな絶頂を経験したならば、彼の脳内に一挙に化学変化が起きて、数年におよぶ隠遁生活とその哲学は霧散してしまうのではないか、と思ったのである。

 

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隠遁生活は、行きつくところであって、はじめから半隠遁しているような「持たざる者」ができるものではないのかもしれない。たとえば隠遁生活をしているものに、10億円与えたらどうなるだろうか。絶世の美女を与えたら。権力や名誉を与えたら。彼らは自らの哲学を守り抜くだろうか。それでも知を愛することを求めるだろうか。

 

その点で、現代における隠遁生活というものは、一種の脆弱さを持っているような気がする。隠遁とは、アシジのフランシスコのように、「すでに持っている者」、数少ない特権階級にのみ可能なのかもしれない。そんなことを思った。

  

今日はここまでで終わりにする。回答になっていない気がする……。明日も隠遁については考察したい。

 

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