齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

名誉に取り憑かれる男たち

昔から伝わるキャバクラの「さしすせそ」がある。

  • さすが
  • 知らなかった
  • 凄いですねえ
  • センスいい
  • そうなんですか?

然り、男というのは、とにかく「すごい」と言われたい生き物である。キャバクラという場所は、お金を払って若い女性にすごいと言ってもらうところだとも言える。

 

男は名誉のために死ぬ

ここ数日、腹を切って死んだ三島由紀夫や、その影響を受けて同様に自死した須原一秀のことを調べていた。

 

mikuriyan.hateblo.jp

mikuriyan.hateblo.jp 

双方に共通するのは、人一倍名誉に憧れていたということである。三島が異常にナルシズムの強い男だったことは、彼と関わった多くの人が指摘していることだ。

 

名誉に憧れるといっても、そうかっこいいものではない。「俺ってかっこいいだろう?」と何度も確認するような、一種のナルチズムである。

 

早熟の天才だった三島だが、次第にスランプに陥った。それははじめての挫折であり、次第に三島には奇行が目立つようになった。彼は右翼思想や肉体改造といった文豪らしくないふるまいをした。しかし名誉挽回の試みは逆効果であり、所属していた文壇から「お前は俗物だ」と酷評されたり、友人から断絶されるなどしたという。

 

三島はたぶん、自分の腹切を認めてほしかったのだろう。「すごい!」「男らしい!」と。

 

須原もまた、そうだろう。「すごい!」「彼は現代のソクラテスだ!」……云々。

 

SOSサイン?

須原は周囲に自死の告知をしていた。三島も同様に「僕は死ぬ」といった発言をしつこく周囲に繰り返していた。しかし、いずれも周囲に強く止められるようなことはなかったという。

 

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たぶんこのような感じで、そこまで強く否定はされなかったのだろう。もしだれかが本心から、彼らの手を強く握りしめて「あなたには生きてほしい」と懇願するようなことがあれば、結果は変わっていたかもしれない。

 

彼らの自死の訴えは、「自分は存在していいのか、それとも存在する価値はないのか」という最終確認だったように思われる。

 

名誉のために死ぬこと

三島は皇国主義のために、須原は哲学的実践のために死んだように偽装されている。しかし、その本意としては寂しかったから、認められたかったから(三島の場合は腹を切りたかったから)だと思われる。

 

名誉に執着するメンタリティ。それは、「存在を許してほしい」メンタリティと近親的なものだ。三島や須原は、「私はそのままの自己であってはいけない」という自己規範が相当に強かったのだろう。

 

私からすれば、三島も須原も名誉の死を遂げた人物ではない。ただただ惨めというか、哀れである。他に道はなかったのだろうか、と考えてしまう。

 

ありのままの自己が愛される。ありのままの自己が肯定される。そういう環境が彼らには用意されていなかったということだろう。

 

名誉とは無縁の世界

これを書いている私自身、まったく評価されていない人間だ。恋人はいないし、友人とはほとんど会っていない。ブログは何時間もかけて書いているわりには、読者はわずかしかいない。

 

私は小さい頃からずっと、自分が存在していいのかどうかわからなかった。その意味では三島や須原と同様の人間だったと思う。だから彼らの心象が理解できるのであり、同時にその危険を理解しているのである。

 

私は、自分が自分であってよいという感覚が、いつの頃からか芽生えるようになった。はじめは脆弱な虚勢だったが、次第に確信に変わった。

 

なにがきっかけだっただろうか。ニーチェマズローを読んでからだったかもしれないし、仏典やバガヴァッド・ギーターを読んでからかもしれない。私を気にかける大学時代の女性のおかげだったかもしれない。

 

とにかく、私はそのままで良いのであって、特別に今の状態から何かを追い求める必要はないのだ、と感じるようになった。――「自分が自分であってよい」。この感覚を、生涯失いたくないものである。

 

 

自己において喜び、自己において充足し、自己において満ち足りた人、かれにはもはやなすべきことはない。彼にとって、この世における成功と不成功は何の関係もない。また、万物に対し、彼がなんらかの期待を抱くこともない。(バガヴァッド・ギーター 鎧淳訳)