齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

支配関係のない世界は可能か

私はアナーキストだ。

 

アナーキスト」とはどのような人だと思うだろうか。……わかっている。北斗の拳のような、暴力の支配する社会を目指していると考えるだろう。

 

しかしアナーキストは実は、暴力とはもっとも遠いところにある。アナーキストの理想は「自己統治」だ。だれにも支配されず、また、だれをも支配しない。

 

したがって、国家や法律、企業などの権威が自分を支配しようとすれば全力で抵抗するのがアナーキストだけれども、自分がだれかを支配することは同じくらい忌み嫌い、排斥するのもアナーキストなのである。

  

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アナーキストは黒くて怖い」かもしれないけど、アナーキズムの黒色は「黒旗」に由来する。「白旗」(敗北主義)や「国家」(色鮮やかな国旗)へのアンチテーゼだ。怖くないよ! 

 

 支配と隷従で成り立つ社会

現代社会は「支配と隷従」で成り立っている。このことは、IQ120以上なら自明の事実であり、IQ100以上なら薄々気づいていることだろう。

 

かつて、支配と隷従の関係はもっと明白だった。IQ80でもそんなことは常識だった。奴隷制では主人がいるし、封建制では領主という支配者が存在したからである。

 

現代では、資本家が支配者で労働者が奴隷という関係になるが*1、労働者は自由意志で仕事を求めて資本家に頭を下げて隷属するのであり、資本家は労働者ではなく労働者の労働力を商品として購入するのであり、支配関係をマスクすると同時に、非常に経済合理的なシステムとなっている。

 

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つまり、搾取が巧妙になっている

 

これは考えてみれば当然で、人々が馬に乗っていた時代から自動車を駆る時代になったのである。科学技術が発展したのだから、支配形態だけが同じである理由がない。

 

支配―被支配と無縁な場はあったか

マルクス歴史観唯物史観)では、農耕以前の原始共産制においては社会はフラットであり、搾取は存在せず、したがって支配も隷従もなかったとされている。文明が発展し、農業共同体の発生したと同時に、搾取が生まれたと。*2

 

この「原始共産制」って、結局ルソーの「自然人」みたいな昔は良かった系のユートピア論なんでしょ? と見る向きもあるのだが、実証的に原始共産主義が存在したとする近年の研究もあるみたい(たまに見かけるだけで、詳しくは調べていない)。

 

いずれにせよ、人々が農耕の時代にうつってから現代にいたるまで支配―隷従の関係が続いているのでは、文明と支配関係は切り離せないのでは?という気にもなる。アナーキストのように、支配も被支配もごめんだ、というのは無理なのではないか、と……。

支配関係のない場空間は可能か

前置きが長くなったが、今日訴えたいことは次のこと。人間は常に多様な生き物だった、ということだ。

 

つまり、あるコミュニティにおいても、人々はそれぞれ違い、違うことでうまくやってきたのだということ。

 

今の日本によくある歴史観は、縄文人が仲良く平和に暮らしていたのに、弥生人がやってきて縄文人を殺してまわり、農耕や武器や戦争といったものを教えた、というものである。

 

これは一見もっともらしいのだが、私はそうではない、と考える。たぶん縄文人にも「ヒャッハー!」と血の気の多い奴がいたし、弥生人にも「殺人反対!人権尊重!」と左翼みたいな奴がいたはずである。その証拠に、縄文時代でもかなりの数の殺害が確認されている。ある民族が均質的な特性を持っているという考え方は、現代の「日本人論」にも言えることだが、よくよく疑わなければならないと思う。

 

「日本史」を見てみても、そこには必ず支配と隷従が存在する。この理由は単純で、歴史とは世界中どこでもそうだが、つねに「支配者の歴史」だからだ。教科書的な歴史を見る限り、人々は常に権力に翻弄され、血みどろであり、搾取と非搾取によって発展してきたのではないかと思わされる。

 

しかし、私はそうではないのではないか、と考えている。歴史的な記述に載らない、被差別民、不可触賤民が存在していたのではないかと。支配も被支配とも無縁な者は、歴史的に無視されてきたのではないか、という気がしている*3。そういう人々は、為政者にとって存在してほしくないものだし、被支配者にとっても蔑視されてきた存在なのではないか、と思う(現代のニートのように)。

 

つまり、アナーキスト的なコミュニティは、社会の片隅に常に存在した。ただ、歴史として記述されないだけで

 

今日私はそのように考えて、ふたつのことを信じることが可能になった。ひとつは、アナーキズムはつねにあったこと。つまり、支配と隷従の枠組みから外れた生き方は可能だったということ。第二には、アナーキストという存在は、社会にはたらきかけ続けてきたということ。歴史的には無視せれてきたが、それは一定の意味をもっていたのだと思う。

 

 

おまけ:チャプリンアナーキストなのかも。

私はこの動画が大好きだ。

www.youtube.com

 申し訳ないが、私は皇帝などなりたくない。それは私には関わりのないことだ。誰も支配も征服もしたくない。できれることなら皆を助けたい、ユダヤ人も、ユダヤ人以外も、黒人も、白人も。
私たちは皆、助け合いたいのだ。人間とはそういうものなんだ。私たちは皆、他人の不幸ではなく、お互いの幸福と寄り添って生きたいのだ。私たちは憎み合ったり、見下し合ったりなどしたくないのだ。
この世界には、全人類が暮らせるだけの場所があり、大地は豊かで、皆に恵みを与えてくれる。 人生の生き方は自由で美しい。しかし、私たちは生き方を見失ってしまったのだ。欲が人の魂を毒し、憎しみと共に世界を閉鎖し、不幸、惨劇へと私たちを行進させた。

 

兵士たちよ。獣たちに身を託してはいけない。君たちを見下し、奴隷にし、人生を操る者たちは、君たちが何をし、何を考え、何を感じるかを指図し、そして、君たちを仕込み、食べ物を制限する者たちは、君たちを家畜として、単なるコマとして扱うのだ。
そんな自然に反する者たち、機械のマインド、機械の心を持った機械人間たちに、身を託してはいけない。君たちは機械じゃない。君たちは家畜じゃない。君たちは人間だ。君たちは心に人類愛を持った人間だ。憎んではいけない。愛されない者だけが憎むのだ。愛されず、自然に反する者だけだ。(チャップリン「偉大な独裁者」より)

チャプリンってアナーキストなんじゃないの? と思ったら次のような発言をしていたらしい。

As for politics, I’m an anarchist. I hate governments and rules and fetters. Can’t stand caged animals. People must be free.

政治に関して、私はアナーキストだ。私は政府や法律、手錠を憎んでいる。檻に閉じ込められた動物には我慢ならない。人々は解放されなければならない。

 

チャプリンもそうだし、老子や釈迦もそうだけど、アナーキストはたくさんいたと思う。アナーキストとされていないだけで。

*1:実際にはもう少しフクザツで、上級労働者が下級の資本家を支配することも多々

*2:明白にマルクスが間違っているのは、農耕以前にも奴隷は存在したことである。奴隷の起源は農耕ではなく、戦争にあった。命乞いする敵兵を生かしてやる情けは、人間の本性である。助けてやった奴隷はしかし、食料供給の安定しない狩猟採集の時代には「お荷物」だった。集中的な労働力を必要とする農耕時代にこそ、奴隷はポジティブな価値をもったと言える。

*3:たぶんおわかりだろうが、網野史観を前提としている。網野は偉大。