齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

単純に生きること

ここのところネットや電子書籍でばかり文章を読んでいる。

 

だが、やはり紙の本の方が好きだ。少し古くなった本を開くときのぼってりした臭いやページの黄ばみがたまらん。

 

本棚をガサゴソしていると、久しぶりにオルダス・ハクスレーの「永遠の哲学」が目にとまった。この本は5,6年前に買ったがいまだに完読できていない。パラパラめくっていると、良い記述があった。

 

世間では、誰かのことを単純だと言うのはその誰かが愚かで無知で信じやすい人だという意味である。……(しかし)私に言わせれば、単純さとは自意識を防いでくれる魂の実直さなのだ。……

 

周囲の世界に没頭して内面へと思いを致さないのは、快適で触知できるものに押し流されてしまう人の盲目状態と同じで、単純さとは反対の極にある。そして、対象が神や人間に対する義務であろうとなかろうと、あらゆることに自己陶酔するのが、もう一つの極であり、それは当人をしてみずから賢いとうぬぼれさせ、よそよそしくさせ、自己意識を抱かせる。

 

……真の単純さは、無思慮からも衒(てら)いからも同程度に解放された正しい環境の中にあり、その環境内では、魂が外界の事物に打ちのめされることがなく、それゆえに、自己意識がもたらす際限のない洗練を反映することも、そうした洗練にとらわれることもない。自分の行く手を見定めて、一歩ごとに思案することで時間を浪費せず、しじゅう振り向きもしない、そういう魂こそが真の単純さを有しているのだ。このような単純さはまことに大きな宝なのである。

 

大部分省略したが、これはフェヌロンの言葉をハクスレーが引用したもの。フェヌロンという人物については、ブリタニカの小事典によれば「フランスの宗教家,神秘的神学者。パリのサン・シュルピス神学校で学び,1676年パリの女学校校長。異端とされたユグノー派に対する寛容を説き,信仰を強制することに反対した。」とある。

 

ハクスレーはたいへん興奮して次のように書いている。

 

これはなんと鋭く微妙であろうか――まことに感嘆に堪えない! 二十世紀で最も根拠の薄いものであるために最も並みはずれているうぬぼれの一つは、フロイト以前には心理学というものを知っていた人は皆無であったという思い込みであり、実際には、現代の心理学者のほとんどが以前の時代の先人たちのうちの最優秀者より劣っているというのが真相なのだ。

 

うむ。

 

フロイトって過大評価されているというか、結局現代の精神医学に都合がいいから権威化されているように思われる(近現代日本が本居宣長を持ち上げるようなもんで)。 

自己が自己になること

「自己が自己であること」、それが単純さである。

 

現代においては、自己が自己になることが、どれほど妨げられているだろうか。毒みたいなまずい考え方がこの世にはびこっている。

 

私たちは、だれそれあっての自分です、なんて考えている。親があっての自分です、みなさんがあっての自分です。会社があっての自分です。国家が、学歴が、年収、肩書あっての自分です。

 

――人はおもしろいもので、なにかを奪われても、それを奪ったものにすがりたがる。ぼったくられて買った絵画は、その相場の低さを知っても高い価値を感じる。

 

ブラック企業で働く労働者は経営者を崇拝したがるものだし、日本のエリートや受験ルーザーが「学歴」に執着するのは、二度と訪れない十代の貴重な期間を役に立たないクイズ問題に費やしたからである。

 

 

 

さて、単純さとはsimpleというよりもpureである。 pureであるということは、フェヌロンのいうようにお人好しのウスラバカではないということだ。自分を信頼し、自分に依拠し、自分で行動することである。

 

嫌なことがあったら嫌です、という。嬉しいことがあったら、満面の笑みを浮かべる。それが単純さである。

 

単純な人は幸せである。騙されることもないし、騙すこともない。彼の人生は単純であり、明快である。彼には薄暗くぼやけた世界に生きる多くの人々が不思議である。

 

単純な人にとって、Life is easyなのである。単純な人というのは、自由で楽しく生きることができるほんとうの特権的な人々なのだ。