齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

内向的だからといってコミュ障とは限らない

私は昔からコミュ障だった。

 

なにか話すときは二秒くらい考えてから話していた。

 

例えば友人から「~~ってこうだよな?」と言われたら。

頭のなかにぱっと選択肢が浮かんで

 

1.「○○だよな~(同調路線」
2.「それは△△だろ!(おもしろい奴路線」
3.「うん(媚びない奴路線」

 

この中の最適解を選ぶ。つまり自己検閲していたのである。

 

私と同じような人間ならよく理解できるだろうが、友人と別れたときや寝る前などに「反省」をしていた。「あの発言は何点だった」「あの発言はよくない。今後気をつけよう」。そんなふうにして「会話~傾向と対策」をマニュアル化していた。

 

今考えるとすごくめんどくさかったし、周りからもそのプロセスを見透かされていてめんどくさい奴or変な奴扱いされていただろう。

 

なぜそんな七面倒なことをしていたかと言えば、「ありのままの姿」をさらけ出せば攻撃されたり迫害される恐れがあったからである。私のいた学校はかなり荒れていたけど、荒れていない学校でも私はそうしていただろう。

 

とにかく学校という場は抑圧的だ。教師が生徒を検閲する。生徒が生徒を検閲する。そういう場のなかにいて、私は「自分で自分を検閲する」ようになったのである。

 

私にとって学校はほんとうに嫌なところでほんとうに恐ろしかったのだが、「学校以外の世界」を知らなかったし、学校以外の自分も知らなかったから、自分が嫌悪していることや恐れていることにも気づかなかった。

そして学校以外の世界は学校よりもひどい恐ろしいところだと洗脳されていた(現在でもそうだが、テレビで流れる「ひきこもり」や「不登校」は極限まで不幸や陰惨さが誇張されており、決して「楽しい充実した引きこもりor不登校」は放送されない。ひどいプロパガンダである)。

 

だから私は自己を検閲し隠蔽してまで学校に通ったのだ。三十路近くになって思うことは、学校ほど恐ろしいところはないということだ。

 

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学校の恐ろしさを忘れてしまったおっさんおばはんは山田花子の漫画を読もう。




話を戻そう。発言の検閲は仕事を辞める最近まで続いていた。つまり不自然なコミュニケーションが続けられていたのだが、仕事を辞めてからはそれがなくなった。

 

私は毎日会う家族に対してはツンケンしているが、たまに会う親戚や初対面の人とは自然に話すことができるようになった。それどころか会話を「楽しむ」ようにさえなった。

 

それまでは私は自分の「コミュ障」、発言前に検閲フィルターをかけなければいけない自分の性癖を「生まれつき」のものだと思っていた。

現実にはそうではなかった。考えてみれば当たり前だが、私は多少神経症のケはあるものの心身ともに健康だし、ふつうに思ったことを思った通りに話せば良いだけなのである。

 

なぜ私が自己検閲をしたかといえば、思ったとおりに話せない「言いたいことも言えないこんな世の中」(←これってもうオワコンなのかな)というイキフン(←これはオワコン)の場が、「学校」と「会社」という場にあったからである。現代日本の教育制度では「学校」は「会社」に入る準備期間である。学校適応者を選出するのがいわゆる「就活」である。

 

したがって、学校と会社を離れたところに真の自由はありうる。

 

仕事を辞めて学校と会社から解放され、ニートというソクラテスプラトンのような自由人的ポジションになって初めてコミュ障を脱することができたのである。

 

私は確実に内向的人間だし、HSP(Highly Sensitive Person)である。つまり人と関わるのは一日のうち10分くらいで十分だし、人間よりも犬や猫が好きだし、騒音や色覚的不調和は許せない。

 

そんな人間でも人とまともに関わることができる……ということを最近になって知ったのである。つまりそれが「人間対人間の関係」であり、「学校」や「会社」といった病的な場でなければ。

 

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↑最近一目惚れした猫。何度見てもため息が出る。

  

コミュ障を脱した私に言わせると、コミュ障は諸個人の性質や遺伝的要素というよりはずっと環境的要因に依るものである。

 

外向的か内向的かは遺伝的性質によるが、過度に他者を恐怖する「コミュ障」は単に社会的な抑圧に起因するものがほとんどである。→内向性は生まれつきである – 齟齬

 

むろん、社会は自らの正当性を主張する。「社会に適応できないお前が悪いのだ」と。だが、コミュ障が不適合なのは職場や教室といった限られた環境である。広い世界では、コミュ障はコミュ障ではなかった可能性が大きい。

 

コミュ障はもっと怒ってもよいと私は思う。社会に対して「いや、お前が悪いんだ」と反駁し、引きこもって不登校になってやればいいと思う。