齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

内向型人間と外向的人間は違う世界を見ている

人間には生まれ持った性質がある。

内向性、外向性はそのひとつである。

 

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フロイトは内向性を病理的なものとみなした。

一方でフロイトと袂を分かったユングは、内向性の価値を認めた。

 

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実際フロイトはいくらか外向的だったし、

ユングは独り湖にボートを浮かべるのが好きな青年だった。

 

 

ハワード・ガードナーのパターン化人間patterners、ドラマ化人間Dramatistsの違いについて見てみよう。

このパーソナリティの区分は、三歳半から認められるという。以下はアンソニー・ストーの「孤独」からの多少編集しつつ引用。

  

Patterners 主として自分で識別できる形状、自分が出会うパターンや規則的なもの、そして特に対象の色、大きさ、形などの物理的属性に基いて、周囲の世界を分析する。したがって、パターン化人間の子どもたちは、ブロックを熱心に組み立てること、テーブルの上に自分の絵の中にある物の形を調べ続けること、常に対象と他の対象とを調和させること、対や三つぞろいなどの組み合わせを作ること、を好む。しかし彼らは、ごっこ遊びをほとんどしないし、仲間同士のおしゃべりに加わることは少ない。彼らは社交的な人間関係の世界を向こうへ押しやって、そのかわりに(たいていは視覚的な)パターンの世界に没頭(そして、たぶん、忘我)する方を選びたがるように思われる。

Dramatists 自分の周囲で起こる出来事の構造に強い関心を抱く。何度も繰り返して聞きたがるおとぎ話の中の、胸をわくわくさせるような出来事だけではなく、実際に自分の身の上にふりかかる事件や冒険、喧嘩、葛藤などである。彼らはごっこ遊びやお話づくり、おとなや仲間たちとのおしゃべりや交流に熱心である。彼らにとって、生活の主要な楽しみの一つは、生得的に、他人との接触を続けて、壮観とも言える対人関係を祝うことである。

 

引用してなんだが、ガードナーの上の区分は現代の心理学ではほとんど忘れ去られているだろう。結局のところその二つは、内向的、外向的という区分と同一だから。しかし、それが3歳児に見られること、生得的であるという指摘は重要なように思われる。

内向的、外向的という性質は、鼻が高いか低いか、身長が高いか低いかといった要素のように、生まれつきなのである。

 

内向者は外向者になれない

結局のところ、私たちの「内向性」「外向性」といった要素は生まれつきのものである。人といるのが楽しいか、刺激を求めるかどうかは、なんらかのトラウマ体験というよりは、生まれ持ったある数値によって決まる。

 

現代社会のひとつの悲惨は、外向性のみを評価し、内向性の価値を省みないところにある。「引きこもり」はひとつの「犯罪」、「病気」となった。迎合的ではなく批判的、実直というよりは気難し屋の人間は一般的に社会的に劣ると見なされる。「明るい元気な子」が現代では子どもたちのゴールとなった。 偽りの笑顔や偽りの活発さといった仮面を子どもたちは強いられている。

 

優れて適応的で、しかし自分というものを持たないような人間がこの世の春を謳歌する。社交のスキルはここでは問題ではない。外向的人間が社交のスキルに長けているのは当然である。彼は社交を求めているのだから。内向的人間が社交のスキルに乏しいのは当然であって、社交を求めていない。

 

私達の世界は本来、ひとつではない。内向―外向のひとつをとってみても、内向的人間と外向的人間とでは、見えている世界が違うように思われる。人との繋がりのなかに快楽や安逸を見つける人があれば、孤独の保証された暗い空間でやっと息をつけるという人がいる。

 

「外向的人間」が求められるようになったのは、近代以降の世界においてである。「明るく元気な子」が求められるのは、近代以降である。というのは、近代以降の社会では、国民あるいは市民は、平板化された「同じ世界」に住まなければいけないからだ。

 

近代以前は世界が多重であった。つまり重層的なコミュニティが存在したから、内向的人間の住む世界は宗教や芸術、科学の領域であり、外向的人間の住む世界は政治、軍隊、商業といった領域だっただろう。詩人と戦士は同じ世界に生きないのが当然であったし、詩人にとっての世界と戦士にとっての世界はまったく別のものだった(中世ヨーロッパの王政と教会の関係を考えてみよ)。

 

しかし現代はひとつの世界しかない。私たちは味噌もクソも一緒に詰め込まれる。初等教育においては、だれもが「平等」にひとつの黒板を視る。私たちはそれぞれすべてが共有する、単一の世界を構築する。学校が社会を再生産し、国民全体がひとつの幻想を見るようになる。

 

学校という場では全国どこでも単一の世界が構築されるのだが、それは真実の世界とは離れている。ある程度「都合」によって調整されたものである。例えば教育は「安定した社会」「経済成長」といった国の重要課題の上に立つものでは決してない。教育学者の大半は幻想のなかにいるのだが、教育は政治や権力と無縁の、教育者が自由にデザインできる聖域ではない。子どもたちは産業社会に適合する「情緒の安定した個人」「不満なく働く労働者」といった大人となるよう育てられるのが通例である(これは医学も司法も同等である)。

 

このような社会では一般的に、内的衝動を抑制し、外的環境に適合する人種が量産されるのであって、それがオルテガやリースマンの発見した均質的な「大衆」ないし「群衆」であった。国家装置としての近代的学校が大衆を生みだしたことは多少想像すればわかることである。

そして大衆を是とする社会が、内向的人間が虐げられる理由を示しているのである。

 

 

 実際我々の時代には精神を所有することが犯罪であるということは確かに真実である、してみれば孤独の愛好者が犯罪者と同じ階級に入れられるのもまったく当然と言わねばならない。(キェルケゴール死に至る病」)

長いよ

だから前々から言っているように、「引きこもりは良いこと」なのであって、息子が登校拒否をしたら赤飯炊いて喜ぶべきだし、会社を辞めてニートになって自分を見つめるというのは、優れて人間的な行為なのである。おしまい。

  

よいお年を。