齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

日曜の夕方の気持ちは何なのだろう……。

「人生においては、歯科医のところと同じようなことが生じる。すなわち、いつでも人はこれから本当のことが始まるのだと思っているのだが、そのうちにすんでしまうのである」ビスマルク

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イラスト:Steve cutts 

 

 

日曜夕方の気分はどうだろうか。

 

嬉しいだろうか。悲しいだろうか。

 

 

私は悲しかった。

 

学生のときも、働いていたときも悲しくてしかたがなかった。

 

気のしれた学友や同僚と再会することは、少しの慰みだったが、

それはマイナスの感情を少し緩和するに過ぎなかった。

 

私はいま無職だから関係ないのだが、

「なぜあんなに悲しい思いを毎週していたのだろう」

ということは疑問だった。

 

The book of lifeという、たぶん英語圏では有名な哲学系のサイトから良い文があったので引用したい。

 

日曜夕方の気持ちは何なのだろう?

原文:What Is That Sunday Evening Feeling?

その気持ちはふつう、夕方5時から7時半頃にやってくる。そして天気が変わり、空から日光が消え、夕焼けが消えた6時頃にもっとも強まる。

 

日曜夕方の気持ちは仕事と関連付けられることが多い。嬉しい休日から職場に戻るという考えだ。

 

しかしそれだけではすべてを説明できない。その感情が意味しているのは、嫌な気分となる仕事をしているだけではなく、「間違った」仕事に戻ることだ。しかし私たちは「正しい」、本当の仕事がどこかにあることを無視している。

 

私たちはみな、真に働く自己を内部に持っている。それは現実の生の素材に対し、長い時間をかけて自分自身を発揮させる、自己の性質と、能力のことだ。私たちは自分が何者であるかという重要な部分を職業にしたい、関わったサービスと製品に反映された自己を確認したいと思っている。このことは、正しい仕事を通じて理解されることだ。そしてそれを求める必要性は、愛情を欲すると同じく根本的で強いものである。私たちは、親密な同僚を得られるような専門職としての運命に失敗すると、壊れたようになってしまう。間違った仕事をしていること、自らの真の職業が見つかっていないことは、決して小さな不快感ではない。それは私たちの中心存在の危機である。

 

私たちは一週間の間、本当の仕事を求める内なる声を統制している。私たちは忙しすぎるし、当面の金銭の必要に心を奪われている。しかし、内なる声は日曜の夕方に私たちを確実に困らせることになる。それは霊界と現世の間にひきとめられた幽霊のように、生きることも死ぬことも許されず、意識のドアを叩き、解決を求める。私たちは悲しくなり、パニックになる。なぜなら残りの人生でほんとうにすべきことをしておらず、時間がなくなりつつあることを私たちの中のある部分では認識しているからである。日曜夕方の憂鬱は、もっと自分自身となれるようにと、私達の良心が漠然と騒ぎたてているのだ。

 

この意味で、日曜夕方の気持ちは歴史を持つ。ここ数百年以前――ほとんどの私たちは――労働において表現を見出し、真の働きがいを求めることなどしなかった。私たちは生き続けるために働き、最低限の収入に満足していた。しかしそのような希望の低さは、今日ではありえない。私たちは知っている――なぜなら明白な実例がいたるところにあるからだが――私達の才能を動力とし、商業のエンジンとすることができることを。私たちは不幸になる必要がないことを知っているが、そこにいつづければ、ある種の恥を感じさせるような場所にいる。

 

私たちは自己に厳しくなるべきではない。私たちはまだ、自己を自己の目的に結合させるための仕組みを知らない。不満足の原因が明白でも、本当にどんな方向に進めばよいかについてはぼんやりとしているのが、私達の仕事の本質である。私たちは本当にすべきことに検討がつかず、すべきことをしていないと確信することができる。

 

答えは忍耐、構造、不断の意志だ。私たちは探偵や、割れた瓶を再構成する考古学者の訓練が必要である。私たちは、酒や映画によって安心することで、「日曜のブルース」として私達の怒りを忘れてはならない。混乱を受けいれ、本当の自己を探し求めなければならない。本当の自己は、他者を喜ばせる必要や、ステータスや金といった短期的な必要に埋もれてしまっている。

 

言いかえれば、私たちは日曜午後の憂鬱を、単に日曜の午後に留めるべきではないということだ。私たちはそれらの感情を生活の中心に起き、それを毎週、毎月、毎年、にわたって持続的に探求するための触媒とすべきである。そのことは自分自身と、友人との、メンターとの、専門家との対話を生みだす。日曜日の夜に悲しみと不安が数時間続く場合、非常に深刻なことが起きている。私たちはレジャーを二日で終わらせなければいけないことに悩まされているのではないのだ。私たちは気が狂いそうに引きつけられているのだ。手遅れになる前に、本当の自分自身は何者か、自分の才能についてどうあるべきなのかを発見しようとする警報に。

 

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動画になってるので、英語ができる方はこちらを……。 

 

 

「本当の自己の欲求」というものを深く考えたことがある人なら、「私たちは探偵や、割れた瓶を再構成する考古学者の訓練が必要である」という記述の意味がよくわかるだろう。

自分の本心が何を求めているのかを探ることは、非常に難しい。海の底にコンタクトレンズを落としたレベルで難しい。「自分のことなど、自分がよくわかっている」と思慮の浅い人はいうかもしれないが、現実には「他者を喜ばせる必要や、ステータスや金といった短期的な必要に埋もれてしまっている」ことがほとんどである。

 

 

  

たいていの人が考える以上に、無意識のメッセージは重要である。意識はありとあらゆる外的な誘惑や妨害に曝されており、それゆえ簡単に道を逸らされ、その人の個性に見合わないような道を辿るよう唆されてしまう(「夢分析論」ユング

 

われわれは、自分の本性に適合している特定の仕事に召されているのである。それから逃避すること、それを恐れること、不熱心になること、それに関してアンビバレントになることは、すべて古典的な意味で、「神経症的」反応である。それらは、不安や抑止を作りだし、古典的な神経症を生み、あらゆる種類の心身症的徴候や犠牲が大きく無意味な防衛を生ずる意味で病気と考えられてよいのである。(「マズローの人間論」エドワード・ホフマン)

(装丁のセンスのいい本だなあ……)

 

嫌なことはするな  したいことをしろ

近代以降の大衆心理は、本心としては嫌なことを、自分が求めるものとして考えるよう、導かれている。

あなたがもし勤務中に、「俺はもうこんなクソ仕事したくない!」とわめきたてれば、周囲はなにかの冗談だと思ってせせら嘲笑うだろうし、もし親切な人がいれば、近くの心療内科を紹介して、あなたに自分自身を「修理」するようすすめてくれるかもしれない。しかし、そういうひとびとであっても、実際のこころは、仕事なんてうんざりだ、と思っているものである。ただそういう本心をひたかくして、立派にはたらき抜くことこそ美徳であるとすべての日本国民は――近代的国家であればどこでもそうだが――教育がなされている。大学教育を除けば、「仕事」「労働」を否定する学校などありえないのであって、すべて教育は労働をゴールとしているのである。「仕事だから」という言葉は、自分の人生を台なしにする免罪符となる。ときに君を殺しさえする。

 

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イラスト:Steve cutts 

 

日曜日の夕方に苦しむ人は、考えるべきだろう。

「私の仕事は、ほんとうに私が求めているものなのか」。

これは、問い続けなければならないことだ。

 

私たちには誰でも二つの人生がある。
真の人生は、子どものころ夢見ていたもの。
大人になっても、霧のなかで見続けているもの。
偽の人生は、他の人びとと共有するもの。
実用生活、役に立つ暮らし。
棺桶のなかで終わる生。

フェルナンド・ペソア「不穏の書 断章」

 

私は早々に問うてしまって、現在はNEETなのだが……^^ω^