齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

文学を志す少年たちへ……芸術は食えない

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芸術では食っていけんぞ、ということをある本から引用する。


 

小説家たちは、彼らのいわゆる「文学」だけが、執筆に値する唯一の文章であると考えている。

しかしながら、彼ら小説家は、編集者や読者が執筆にたえず口出しすることに我慢しなければならない。平均的小説家の経歴における最大の障壁は、因習的社会で成功をおさめるか、あるいは芸術家としての自己の信条を守るかという二者択一を迫られることである。成功を得るには「商業ベースに乗る」こと、つまり自分の雇い主である非創作家の要望に応じた執筆をすることが必要である。

だが、そうすることによって彼は他の小説家たちの信望を失い、また多くの場合自尊心をも失ってしまうのだ。こうして小説家たちは、部外者に対してどれだけ屈従しているか、其の程度に応じて、自分たちを極端な「文学」作家から「商業」作家にいたる範囲で分類するのである。

 

小説家は他のいかなる人間とも異なった神秘的・芸術的天分を有する芸術家とみなされている。この天分の所有によって、彼はそれを持たない部外者の統制から自由であるはずなのだ。

 この態度は一般化され、小説家とは普通人と異なった優れた人間であって、芸術活動においてはむろんのこと、あらゆる生活領域において部外者たちの統制に服従してはならないのだという感情にまでいたる。 

いいかね、小説家ってのは他の人間とは別なんだ。しゃべり方も違う、動き方も違う、恰好だって違う。他の人間とは似ても似つかない人間なんだ。……文学関係の仕事から足を洗うのが難しいってのはだね、連中とは別な人間だって感じるからなんだ。

 小説家ってのは異国のジャングルか何かで暮しているみたいなものだ。

(……)

小説家であるってことはすごいことだ。俺はけっして後悔などしない。痴愚には絶対分らんことが、俺には分るんだからな。

 

 小説家は自分ならびに自分の同類を、小説家以外の人間とは別種の、特別な天分をもった人間であって、だからこそ、執筆についてもまた日常の社会的行動についても、他の人間の統制に服従しなくてもよいのだと考えている。

 そして一方、この特別な天分が与えられていない痴愚には、自分たち小説家の文学も生活様式もけっして理解できない。にもかかわらず痴愚な人間は、小説家にたいして非芸術的な執筆を強制するという圧力を有するのだから、無知で狭量な畏怖すべき種族とされるのである。小説家の悩みは、この痴愚たちが思いどおりのことがやれる地位にあるという事実に、言いかえれば、たった今読んだ小説が気に入らなければ二度と金を払って本を買わなくてもよいという点に由来するのである。

 痴愚たちは文学に無理解であるにもかかわらず、自分たちの評価基準をもって文学を判定する。小説家にとって思いもよらぬ、しかもけっして正しいと思えない規準によってなのだ。ある商業的な小説家は皮肉な口調で言っている。

 

僕らは何をどう書こうが、たいして問題じゃないのですね。だから、やることは単純ですよ。ひと月あまりも繰り返せば、だれだってうまくやれるくらいです。なにせ、女性かなんかが恋に落ちて、それで男性かなんかが死んで、最後は涙でしめるだけなのだから、こんな簡単なことはないです。連中は気にしやしません。彼らにとっては、お涙頂戴がなっていれば、それでいいんです。感動物語であれば、クライマックスで泣けばいいことが分るわけですからね。おまけに小手先の文学表現でも書いたら、上機嫌ですよ。連中はそれ以上の高望みはしないのですね。

 

「君は自分が小説を書いてやっている人たちのことをどう考えている?つまり読者のことだけど。」

「障害物だね。」

「というと?」

「あんたが商業的な文芸誌で書いているとしてみなよ。連中の好みにあわせて、古臭い文体をさせられるぜ。(……)連中にうんざりすることになる。彼らは何も分っちゃいないことが見えてしまうからなんだ。まったく、どえらい障害物だよ。」

 

文学作家も、また商業的作家も、読者に対する態度については基本的に意見が一致している。つまり、小説家集団にのっとった自由な自己表現の欲求、ならびにかかる欲求の充足は外部的圧力によって断念さえなければならないという認識である。この小説家双方の態度に共通しているのは、成功のためには「商業ベースに乗ってやる」べきだという誤った考えをいだく痴愚な読者に対する徹底的な軽蔑と嫌悪である。

 

 いいかい。これは三年ほど前に俺が習ったことなんだ。金を稼ぎたかったら痴愚を楽しませなければいけない。原稿料を払うのは彼らだ。ということは、彼らのために書かなくちゃいけないということだよ。いい作家はいやな仕事をしやしない。だが、くだらんものばかり書かなきゃいけないとしても、何がくだらないものなのか、それに面と向ってみるのもいいじゃないか。俺はいい暮しがしたいのさ。金を儲けたいんだ、車を買いたいんだよ。いつまでもそう肩肘はっていられるか。

 俺のいうことを悪く取るなよ。文学を書いて金を稼げたら、たいしたことだ。けど一体何人の男にそれができる?……あんたも、そういうふうに文学をやれたらたいしたものさ。だが、あんたがもし悪いいやな仕事をやってたとしても、それに文句をいったところではじまらないのさ。商業ベースに乗らなくちゃいけない。つまりだ、痴愚たちはあんたの給料を出しているわけなんだから、それに慣れた方がいいってもんだ。楽しませてやらなくちゃいけない連中なんだから。

 

 

A「文学をやれるような仕事なんてないぜ。ミステリーとかエロとか何でも書かなくちゃならないのさ。文学をやれるようなところなんてないんだよ。なあ、一生おれの人生と格闘するなんてご免だからな。」

B「そうかい、あんたは愉快にやりたいんだね。でも商業的に書いてたんじゃ楽しくないに決まってるよ。あんたはそのことを十分知ってるはずさ」

A「ミステリー作家が楽しくやれるはずはないと俺だって思うよ。商業的にやってゆくなんてことはまったく退屈だからな。だが全然何もしなかったら、つまり文学もやれなかったりしたら、その方が最低に退屈だ。」

 

作家は、読者の心をとらえたいという欲求、彼らが自分の表現から楽しみを得ていることを実感したいという欲求ももっている。そして、そのことがまた、読者の要求に作家が屈服する理由でもある。ある男はこう述べている。

俺は、だれか読んでくれる者がいた方が、書いてても楽しいよ。あんただって、自分の作品をだれも読んでくれなかったら、なんのための執筆かって思うさ。結局のところ、文章ってのはそういうものなんだ――読んでそこから楽しさを得てくれる連中のためのものなんだ。だからこそ、俺はつまらん文章を書くのをそれほど苦にしないでいられるんだ……

 

 

僕はこの商売から足を洗ってよかったと思ってる。文学仲間たちのなかにいるのはウンザリなんだ。儀礼的で仰々しいしきたりばっかりなんだ。あいつらは特別なことばを使い、特別な服装をして、特別なメガネをかけてなくちゃおさまらないんだ。そんなことのどれ一つをとってみてもみな、「俺たちは違う」というくだらぬ思い込み以外の何の意味もないことばかりじゃないか。

 

 

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ちょっと不自然な文章が続いたかもしれない。

以上はハワード・S・ベッカー「完訳アウトサイダーズ」という社会学の本のパロディーである。

 

ほんとうは20世紀半ばのジャズ・ミュージシャンに対する調査なのだが、「小説家」に変えてみたらおもしろいんじゃないかと思いパロってみた。

主な書き換え。

  • 音楽家→小説家
  • スクウェア→痴愚 現在で言うnormyのようなもの。
  • ジャズ→文学
  • 聴衆→読者
  • 演奏→筆記

 ちょっと無理はあるかもしれないが、商売か芸術か? というテーマに関して、ジャズミュージシャンと小説家は一致しているように思われる。あと、大部分は芸術を理解しておらず、したがって芸術じゃ食っていけないという事情は、現代日本も昔のアメリカも変わらないようだ。

 

そんなわけで、文学じゃ食っていけません。というお話でした。