齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

国家と徴税

「さっさと日本人、やめたいなあ」と思う昨今です。 

 

「日本人」をやめることができれば、税金も賃金労働もなくなります。明らかに自分よりもバカな権力者が自分の運命を決めたり、エリートや富裕層、皇室が税金や搾取で贅沢な暮らしをし、警察や上司が偉そうな態度をとることもなく、たぶん幸福に生きていけると思います。

 

私はアナーキストです。つまり国家を否定しています。これは突飛なことに思われるかもしれませんが、「国家から逃げ出したい」という気持ちは至って自然なことです。

 

……ということをJames C. Scottの「ゾミア―― 脱国家の世界史」を読んでいたら再確認したので、まあ前も似たようなことを書いたのですが、再度書きます。

 

国家とは徴税である

税金は、文明社会の価格である。税金は文明の価格である。私は税金を払うのが好きだ。それによって文明を買うのだから。オリバー・ウェンデル・ホームズ

 

国税局は、だれも読まないクソサイトでホームズを引用し、税金を「社会の会費」としています。

 

税金は文明の対価である――なるほど、これは正確な事実だと思います。

 

問題は、すべての人に「購入」や「入会」を強制していることにあります。つまり、文明を必要としない、文明を遠ざけて生きたい人にとって、税金は「支払い」ではなく、国家権力のテロルによる強盗だということです。

 

文明があるところに国家があり、国家があるところに徴税がありました。国家はまず税金を基盤とします。だれかの富を奪うのでなければ、どうやって国家は権力を手に入れるのか? 富によって軍隊や警察を働かせなければ、どうやって臣民を従わせるのか? 国家権力は徴税を基盤としています。言語とか民族は後付けのもので(日本人論のように)、実際あまり関係ない。

 

そんなわけでJames C. Scottは次のように言うわけです。

「文明化」すること、「漢人」となること、まっとうな「タイ人」や「ビルマ人」になることは、実質的には、国家に完全に統合され登録され、課税対象となることとほとんど同じである。対照的に、「非文明」的とは国家の領域の外で暮らすことである。

文明とは課税であり、課税とは文明なのです……。

 

そういうわけで、国家の外に生きる人々は、国家の中に生きる人によって(勝手に)野蛮人とか、未開人とか、人間未満とかよばれてきました。

 

国家権力がおよばない周縁地域の人々、例えば焼畑民、山地民、森に住まう人、あるいは田舎の「奥地」に住む農民を指す語は、たいてい侮蔑的な響きをもっていた。ビルマ人は、文化の中心地から遠く離れた村人をトーダーtawdhaと呼ぶ。この呼び名には森に住み、無作法で荒々しく、野蛮(ビルマ語ではヤインyain)という意味があった。

 

税と不平等を押しつける王国を去り、山地へ向かうことを選んだ人々は自動的に社会の常軌を逸したものとみなされた。

税金や徴兵が嫌で逃げだす人々

私たちは文明とは良いものであり、未開の人々は進んで文明社会に吸収されていった、というように考えがちです。こういったヘーゲル的な国家観は、民族の奴隷化や植民地化を正当化するイデオロギーとして役立つものです。

 

しかしながら、国家の本質は自由と平等ではなく、徴税と不平等をその基盤としています。したがって、好き好んで入ろうとする人はあまりいなかったようです。初期国家の人口の大部分は、戦争捕虜や、外から収奪あるいは購入された奴隷でした。初期国家には、強制的にその土地に縛られた奴隷しかいなかったのです。

野蛮人に憧れる文明人

国家に入ろうとしない人だけでなく、積極的に国家から離れる人がいました。それは増税や専制、戦争、疫病の場合に顕著でした。彼らは(低地に位置する)国家を離れ、高地へ逃げました。彼ら文明人はむしろ文明に辟易とし、野蛮人にあこがれて、彼らと同化したのでした。

 

ウィリアム・ロウは大胆に、「野蛮人のほうに加わる」のは例外ではなく、当たり前の標準なのだ、と主張した。「何世紀にもわたる歴史的事実は……中国文明に同化した原住民の数よりも、原住民に同化した中国人の数のほうが圧倒的に多いことを示している」 

 

Jamesは、「この文脈で重要なのは、文明から野蛮へという逆行はよくあることで、平凡ですら」 あると言います。

 

国境近くにいるひとびとは、国家と野蛮と、どちら側にもいける利点を有しており、そうした場所では人口流出が多かった。

 

また、以下の記述が気になるところです。

高度な定住社会から敗走した者たちが多くの野蛮な辺境を形成していたこと、そして彼らの社会は国家空間のもたらす危険と抑圧から意図的に距離をとろうとしていた……そのために人々はしばしば定住地を捨てて、社会構造を単純化し、移動に適した小規模な集団にわかれた。皮肉なことだが、このような小集団に分岐したため、初期の民族誌家はヤノマミ、シリオネ、トゥピ・グアラニーなど散在して暮らす人々を「原始人の生き残り」と見事に勘違いしてしまった。

個人的にびっくりしたのですが、ヤノマミ族って原始人の生き残りじゃなかったのか! 国家から逃れてきたんですね。

国家から逃れる合理的な理由

「ゾミア」からの引用を続けます。

国家の中心地から避難する動機はいくつも考えられるが、おおまかな分類は可能だ。国家による略奪がなければ誰もが低地での稲作を好むだろうことを暗に仮定する文明論とは反対に、水田稲作よりも山地の焼畑や狩猟採集生活を選択する積極的な理由があった。開けた土地がたくさんあるかぎり、労働収支の観点では焼畑は灌漑稲作よりも効率的だった。実際に土地はごく最近まで豊富にあったし、もともと山には病害虫が少なかったので、焼畑の作物は豊富で多様な栄養を供給した。これに低地商業や国際貿易で高価に取引される商品をもたらす狩猟や採集を組みあわせれば、比較的わずかな労働で大きな見返りがもたらされる。焼畑や狩猟採集で、社会的自律と商業交換の利益の両方を得ることは可能だったのである。たいていの場合、山地へ赴いたりそこに居とどまることは、物質的な犠牲と引き換えに自由を求めることではなかった。

農村は自由を奪うばかりでなく、非合理的で非生産的だったのです(日本企業のように)。

国家を離れて平和に生きる高地民

高地と低地との対照には、高地を初めて訪れた森林行政官も圧倒されて、こうもらしている。「ここでは貧富の差を見出すことができない。地位にかかわらず皆が同じように他の人に話しかける。子どもたちは両親に対して、はては村の指導者に対しても、敬語は使わず普通の言葉ngokoを用いる。他人の前でかがんで会釈する人はだれもいない。」

 

ヘフナーが指摘したように、テンゲル高地住民が最も重視しているのは「あれこれ命じられること」の回避であり、これは低地ジャワ人の複雑な階層社会や地位の記号化された行動とはわざと矛盾するような志向性であった。……テンゲル高地は、五〇〇年にわたり低地国家から避難してきた人々が居住する地理的空間であり、そこで人々は階級意識の強いイスラーム低地住民との対照を意識して、平等的価値観とヒンドゥー教儀式を形成してきたのである。(強調は私)

 

あまり狩猟採集社会を理想化してはいけませんが、まさにアナーキストが理想とする社会がそこにあるのです。あれこれ命じることを嫌い、命じられることも嫌う社会です。すなわち、自由社会。テンゲル高地に生まれたかった……。

 

あと、イスラームとヒンドゥーだと、やはりヒンドゥーの方が平等主義的なんですね。

 

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西パプワの山岳に住むヤリ族(引用元

 

野蛮人という言葉は、インドシナ半島すべての山岳部族を指し示す言葉として多くの著者が用いてきたが、不正確極まりない誤解を招いている。なぜならインドシナの多くの山岳部族は、平地国家で課税に悩まされている住民よりも文明化され、人間味にあふれているからだ。平地住民はかつて栄華を極めた巨大帝国の残存に過ぎない。

 

狩猟採集民とは対照的に、農民は概して、悪質な菌を吐き出し、強力な武器と防具を手に入れ、より高い技術をもち、容易に侵略戦争を遂行できる中央集権化された政府のもとで暮らす。(ジャレド・ダイアモンド「銃、病原菌、鉄」

まとめ 

私たちが思う以上に、多くの人は、国家から逃げることを選択していました。

 

これは自然な考え方です。人間の行動原理は経済的です。国家にいるのと、野蛮(非文明)に生きる。どちらが幸福に生きられるか? 野蛮に生きるのが幸福なら、国家を捨てて生きよう。昔の人はそういった当たり前の感覚をもっていましたし、国家権力が強力ではなかったのでそういうことが可能でした。

 

現代では国家から離れることができません。近代化とは、非国家的な空間がなくなることを意味します。戦争での徴兵を逃れることはほとんど不可能でした。現代の上がり続ける税金や、下がり続ける労働条件から逃れることも不可能になっています。

 

逃げ場がなく、搾取されるだけの底辺層は、誘拐された人質と同じように国家を愛するようになります(愛国心とストックホルム症候群 - 齟齬)。これは人間の生存本能が持つ悲しい心理です。

 

そんなわけで、国家から逃れるという、たぶん1万年くらいあった選択肢は、現代においてはほとんどなくなってしまいました。そういう事情で、近代化付近のアナーキズムの勃興があったのだと思います。

 

ともあれ現代というのは、不自然でやるせない時代というのが事実のようです。

 

私もソローのように、国家の干渉なく、自然のなかで生きたい、と思っているのですが、現実は厳しいです。現代社会は牢獄のようにも感じます。何百年か早く生まれればよかったのかもしれません。