齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

学校教育とマスメディアの共通点

学校教育=マスメディア+刑務所?

 

最近考えていることは、学校教育にはマスメディアとしての要素があるということです。

 

「学校は監獄だ」ということは以前書きました。

 

ただ、学校は刑務所にはない要素もあります。それは、刑務所では個々人がなにを考えていようとそれについては干渉されないということです。つまり行動について統制されても、思想までは統制されない。*1

 

しかし、学校ではひとびとの思想や心理が条件付けられます。彼らは既存のシステムに適合するよう洗脳させられる。そのプロセスは、必ずしも「教育」に限定されるのではなく、クラスメイトとの関わりも重要な役割を果たしています。「いじめ」や「仲間はずれ」、「学級ヒエラルキー」は、子どもたちに既存システムに適合することへの恩恵と、適合しないことの恐怖を叩き込みます。

 

この洗脳は非常に強力であり、社会システム維持の基盤となっています。「学校が社会を再生産している」といわれる所以でもあります。その要因としては、子どもが操作しやすい幼い脳を持っているからというのもありますが、刑務所のような強制性が効果を著しく高めている。

 

すなわち、自立した成人にとってマスメディアの影響を極力退けることは可能だが、学校教育ではそれが不可能です。逃げ場がない。

 

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フランスの監獄における、アルコールの悪についての講義。学校に似ていますし、マスメディアにも似ているところもあります。

 

学校教育とは、縛りつけて洗脳する、強制的なマスメディアなのではないでしょうか。それも、もっとも強力なマスメディア?

 

マスメディアと学校教育の類似性

学校はマスメディアである」という考え方は、世界的に先達があまりいないのか? 検索してもあまりでてきません。

 

ただよく調べると、インドのShikshantar SchoolというサイトでShilpa Jainという人が、メディアと教育の関連について書いていました。そこから引用していきます。

学校化schoolingと同じように、マスメディアは技術産業エリートによる、強制的な権力構造を支持するために用いられる。

 

学校化と同じように、マスメディアは私たちの完全で唯一の人間としての存在を弱め、私たちを他者の助けが必要で、不完全で、均質的な存在だと教え込む。

 

私たちを「楽しませる」一方で、マスメディアは私たちに消費を促し、空っぽの自己を埋めるために消費することを促し、教育システムを補完する。

 

したがって、マスメディアは専門家やプロに対する制度依存を再強化し、同時に私たちの創造的な潜在力、実際的な労働力、地域的な関係性、そして私たち自身の人生の物語を、価値のないものとみなす。

 

教育と同じように、マスメディアは私たちの心理に、環境に、宇宙観に、深刻な影響を与えてきたし、与え続けている。

 

まさに、マスメディアと教育システムの類似性は、顕著である。マスメディアが教育していることは、ますます明らかになってきている。多くの人々にとって、教科書やアカデミックよりも、マスメディアがはるかに大きな情報源となっている。(あなたは何度聞いただろうか? 「私はそれをテレビで見たから、本当に違いない」)

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「こち亀」より

同時に、教育システムもマスメディアの一形態として見ることができる。 特定のツール(カリキュラム、教師、試験)は、大規模な視聴者にメッセージ(特に進歩や発展について)メッセージを伝える。

 

……さらに、教育システムとマスメディアは人類を「大衆」として見る。すなわち、無知から救われるために情報を必要とする、顔がなく、名前がなく、コンテクストのない単位。

 

教育システムはたしかに大衆を生みだしたといえそうです。リースマンやオルテガが「大衆」を概念化したのは、教育の拡大していった20世紀前半でした。

 

Shilpa氏はメディアを知ることが学校教育の問題点を知ることにもなるといいます。

以下、かいつまんで引用します。

 

私たちが世界について「知っている」ことは、大部分が私たちが教えられたことの機能である:独占的なメディアから得た、扇情的で表面的な分析。世界のメディアを所有する数少ないコングロマリットがは、公衆の注意を重要な問題や、根本的な原因、システムによる要因、私たちの役割と責任から目をそらすことに成功している。

 

……世界中の中産階級は連続ドラマや音楽PV、ゲームショー、皮相的なニュースやスポーツに釘付けになっている。メディアは私たちを受動的な視聴者として固定することによって、私たちのエリート権力の静かな受容を保証する。

 

専門的エリートの支配を確立するために、メディアは恣意的に「事実」と「解釈」の境界をぼやかす。主観的/バイアスのある分析が客観的事実として伝えられる――決して疑われることなく。もしだれかが疑問を起こすならば、彼らは反国家的か、テロリストか、どちらかだとラベルする。

 

これ、非常に共感できる文章です。アナーキズムは理性的な政治哲学ですが、火炎瓶を投げるテロリストと思われています^^; これはある意味、当たり前の話であって、もし学校教育が「人々を自主的に、自由に考えさせる」ものであれば、国家が全力で潰すはずです。国家というのはそれほど自明でも自然なものでもないですから。

 

マスメディアは私たちの個人的、集団的な表現を沈黙させる。 ……私たちがだれか、どのように生きているか、自分たちをどのように放言するか、は私たちに見せられ、与えられた「現実」に対して競争力を持たない。それらは私たちの生活よりも、より正直で重要だと想定される。メディアはセレブたちに熱中しているが、それらは私たちに自分たちの生活がいかにつまらないものかを思い起こさせる。

 

マスメディアの大きさとスケールは、自己評価、創造性、責任感、多様性を効果的に破壊してゆく。私たちはこのことが起きることを何度も見てきた。彼らはつねに、自らの新しいことを生み出す能力を疑ていた――踊ったり、音楽や絵を書いたり――そして本や映画で見たものをコピーすることを好んだ。

 

本質的に、マスコミは競争の文化、とりわけ世界を今日破壊している利益と物質の成長のプロジェクトを(鮮やかな色彩によって)進めている。

 

このように、マスメディアは(教育と同様)に、相互に切り離され、巨大な組織に思考や価値観、行動を依存する、利己的な、非人間化された単位を生産することを助長する。このことがマスメディアを社会的統制と内―規範化にとって強力な道具とし、不公正な現状(富と資源の80%が20%によって支配される社会)を強化することを可能にしている。

 

まとめ

学校教育も、マスメディアも少数のエリートに奉仕する点で似ています。

 

どちらも、ひとびとを無知で無力だと思い込ませ、権威に依存させ、権力者に従順な無個性な単位としてつくりかえます。

 

マスコミが批判されることはあっても、学校教育が批判されることは非常に少ないのですが、本質的には同じような存在といえるように思います。

*1:刑務所で思想を醸成する思想家は多いです。監獄において、幸徳秋水はクロポトキンに出会い、マルコムXはコーランに出会いました。ドストエフスキーもシベリア流刑が「白痴」や「罪と罰」にかなり影響を与えています……これは監獄という場所が、遵法主義者conformistの少ない、多様な人間の集まりという事情もあります。