齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

仏教とアナーキズムの関係

ブッダとアナーキズムの意外な共通点。

 

仏典が好きです。

 

仏典はいわゆる宗教書と違い、妄想な抽象的な記述が少なく、具体的で明晰です。哲学的とも言えます。

 

仏教にはどうも堅苦しいイメージがつきまといますが、本来の仏教は「世間に惑わされず、欲を断ち切り、人生を自由に楽しく生きようぜ」という教えであり、ポジティブで楽しい教えです。

 

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(引用元)

 

No Gods, No Mastersなアナーキストな私ですが、仏典は素敵な本だと思います。

 

ブッディスト・アナーキズムという流派があるくらいですし、仏教とアナーキズムはかなり似ている部分がありそうです。実際にブッダはなにを教えたのか、見ていきましょう。

 

 

真理のことば、感興のことば

以下、ダンマパダ、ウダーナヴァルガの中村元先生の訳書「真理のことば、感興のことば」から引用していきたいと思います。

賢者はあらゆる束縛から離れる

重要なことは、ブッダは「自由に生きよ」と説いたことです。

愚人は束縛によって迷っているが、賢者は束縛を断ち切る。聡明な人は束縛を取り除いて――ここに神々と人間とのすべての束縛を断ち切って、あらゆる苦しみから解脱する。(P.265)

賢者は束縛を断ち切ります。「神々との束縛を断ち切る」とあり、無神論的な記述でもあります。

 

この文章は以下のように続きます。

束縛から迷いの生存が生じ、束縛を離れることから迷いの生存が滅びる。聡明な人は生存の生ずることとほろびることとのこの二種の道を知って、諸の束縛を超えるようなその境地を学べ。

アナーキストも、あらゆる束縛を拒絶する点では同じです。 多くの人が必要のない拘束によって苦しんでいます。

 

現代風にいえば、「明日は仕事にいかなければならない、生活するためには働かなければならない、家族のために尽くさなければならない、周囲の期待に応えなければならない」など、そういった束縛です。

 

これらの拘束は賢明に考えれば、容易に解放されうるものなのです。 

眠っている者どもよりは目ざめている者がすぐれている。目ざめている者には恐れがないからである。(p.205)

 

とブッダは言うわけですが、ブッダとはそもそも「目ざめた人」 という意味でして、目を開くことによって人は自由に楽しく生きられるのです。

他人に従属する苦しみ

他人に従属することはすべて苦しみである。自分が思うがままになし得る主であることはすべて楽しみである。他人と共通のものがあれば、悩まされる。束縛は超え難いものだからである。 (p.274 強調は筆者)

非常にアナーキスティックな文言です。

以下のように続きます。

貪る人々のあいだにあって、われらは貪らないでいとも楽しく生きて行こう。貪っている人々のあいだにあって、われらは貪らないで暮そう。

 

われらは何物ももっていない。いとも楽しく生きて行こう。ミテイラー市が焼けているときにも、(ここでは)何も焼けないのである。

 

悩める人々のあいだにあって、われらは悩み無く、いとも楽しく生きて行こう。悩める人々のあいだにあって、われらは悩み無く暮そう。

 

他人を傷つける人々のあいだにあって、われらは人を傷つけることなく、いとも楽しく生きて行こう。他人を傷つける人々のあいだにあって、われらはひとを傷つけること無く暮そう。

 

他人を悩ます人々のあいだにあって、われらは人を悩ますことなく、いとも楽しく生きて行こう。他人を悩ます人々のあいだにあって、われらは人を悩まさないで暮そう。

 

仏教とアナーキズムの違いは、仏教ではあらゆる階級の破壊を望んでいないということです。アナーキズムでは、自分だけが自由であっても、他者が苦しんでいたら幸福ではないとします。

 

仏教は自分たちが解放されれば良いと説いているので、ちょっとエゴイストな思想かもしれません。(むろん後期の大乗仏教は異なるわけですが)

隠遁は楽しい

森は楽しい。世の人々はここで楽しまないが、情欲のない人々はここで楽しむであろう。かれらは快楽を求めないからである。

 

村にせよ、森にせよ、低地にせよ、平地にせよ、聖者の住む土地は楽しい。

 

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賢者にとって、森は楽しいところです。欲望を掻き立てられることなく、静かに暮らせるから。ただ、聖者がそこに住まうことを決めた土地は、都会にあっても楽しい場所であることが記述されています。

隠者は外部と隔絶されない

かといって、隠者は完全に孤独者となるのではありません。

善き人々は遠くにいても輝やく、――雪を頂く高山のように。善からぬ人々は近くにいても見えない、――夜陰に放たれた矢のように。 

隠者は完全に外部と寸断されるわけではない。高所にある人同士で響き合うわけです。

 

以下はニーチェ全集からの引用ですが、似たようなことを言ってますね。

本当は偉大なものは偉大なものにしか影響を与えないのだ、ちょうどアガメムノンの松明の知らせが山の頂きから頂きへと跳ぶだけのように。一つの文化の使命は、偉大なものが一民族のうちで隠者や追放者にはならないようにすることである。 (ニーチェ全集 第四巻)

ちょっとずれますが、プラトンも似たようなことを書いてます。

まことに、運命のさだめは、悪しき者が悪しき者と真の友となることも、さらに、善き人が善き人と友にならずにいることも、けっして許さない(パイドロス/プラトン) 

自分の主人は自分

仏教は孤独な生活を推奨します。

ひとり坐し、ひとり臥し、ひとり歩み、なおざりになることなく、自分ひとりを楽しめ。つねにひとりで林の中に住め。(p. 229)

ブッダの教えがアナーキズムと共通する点は、自分を自分が支配するself-governを重視しているということです。

この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 賢者は、自分の身をよくととのえて、(自分の)主となり得る。 (p. 230)

「自己が自分の主となった」者は、以下のような存在になるとブッダは言います。

 

「目的を達成する。
徳業を達成する。
名声を得る。
名誉を得る。
いろいろの幸せを得る。
天の世界に生まれる。
永く天の世界にあって楽しむ。
明らかな知慧を獲得する。
親族のあいだにあって輝く。
悩みのうちにあって悩まない。
いかなる束縛をも断ち切る。
すべての悪い生存領域を捨て去る。
すべての苦しみから脱れる。
ニルヴァーナの近くにある。」

 

というわけで、さすがにニルヴァーナ(極楽浄土)に到達はしないまでも、近くまでは達しました笑 

 

仏教は「自分が自分の主人となる」ことに非常に重きを置いているのであり、これはアナーキズムと共通する点です。

身軽になるための禁欲と無所有

よく、宗教者は断食してみたり、何日も座禅を組んだり、厳しい禁欲にあけくれる人がいます。

 

で、禁欲それ自体が快楽になって、マゾヒスト化する宗教者が珍しくないわけですが、 ほんらい禁欲は身軽に、束縛から逃れるためにすることです。

 

修行僧らよ。他人が養ってくれるのではなくて、托鉢によってみずから養い、心は静まり、専念している修行完成者を、神々も羨む。

 

修行僧らよ。他人が養ってくれるのではなくて、托鉢によってみずから養い、尊敬をも名声をも望まない修行完成者を、神々も羨む。

 

……

しかし僅かの物で生き、軽やかで、自己をもとめようと欲し、諸の感官を制し、至るところにおもむき、解脱していて、家なくして往来し、「わがもの」という観念が無く、望むところも無く、欲望を捨てて、独り歩む人、――かれこそ修行僧なのである。(p.284)

 

ようは、「富は重荷」ということです。

 

何物ももっていない人々は楽しんでいる。何物ももっていない人々は知慧の徳をもっているからである。見よ! 人々は人々に対して心が縛られ、何物かをもっているために(かえって)悩んでいるのを。(p.271) 

 

私たちは高級車を買えば、それに縛られます。盗難の心配をしたり、つぎのドライブを夢想したり、いずれにせよ精神が縛られます。家を買えば、それに縛られます。家を買えば、火事や空き巣が気になります。つぎは立派な家具を揃えようとか、飾り立てようとします。そして、ローンなどを組めばそれに縛られます。

 

ほんとうの自由は、富をたくわえたり、 贅沢で豪奢なものを手に入れることではない、とブッダは言います。

 

手をつつしみ、足をつつしみ、ことばをつつしみ、すべてにつつしみ、内心に楽しみ、心を安定統一し、ひとり居て、満足している、――その人が<修行僧>なのである。

修行僧が、人のいない空屋に入って、心を静め、真理を正しく観ずるならば、人間を超えた楽しみがおこる。(p. 285) 

 

隠遁生活をするアナーキストは少なくありません。その代表的な例はヘンリー・デイヴィッド・ソローでしょう。また、ユナボマーことテッド・カジンスキーは、人里離れた小さな小屋で年間千ドルで生活しました。犬儒派のディオゲネスも隠遁に近い生活をしていたといえるでしょう。

ブッダの恋愛観

ブッダに恋愛相談をしてみましょう。 恋の悩み教室のブッダさんの回答。

愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。(p. 39) 

というわけで、「会うな」というのが答えでした……。 

 

愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?(p. 40)

 これ、現代的な「恋愛エートス」にどっぷり浸かった現代人には理解しがたいかもしれませんが、恋愛とは幻想であり、基本的には苦しみと葛藤しか生まないことは、みなさんの経験則でもわかるでしょう。

 

ブッダは非常な「女嫌い」としても有名です。

若々しく美しい女のように、醜くて穢れた身体が飾られている。それは愚人を迷わすには足るが、彼岸を求める人々を迷わすことはできない。 (p. 249)

きれいは汚い――マクベスっぽいですね。

 

結局、他者に依存するところに、自由はないということです。ゆえに、ブッダはただ自分のみを愛することを言います。

 

もしも自分を愛しいものだと知るならば、よく心がけて自己を守るべきである。――辺境にある、城壁に囲まれた都市が内も外も堅固に守られているように、

 

そのように自己を守れ、汝らは瞬時も空しく過すな。時を空しく過した人々は、地獄に堕ちて悲しむ。

 

どの方向に心で探してみても、自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった。そのように、他人にとってもそれぞれの自己がいとしいのである。、それ故に、自分のために他人を害してはならない。(P. 179)

 

というわけで、仏教のひとつの大きな特徴は、「個人主義的」であるということです。自分を愛することが、真理への道、解脱への道である。

まとめ

現代仏教は、権威主義的な、富や色欲に溺れた仏教者や宗派というのも、存在するのですが、ブッダの教えそれ自体は明晰であり、合理的であり、楽しい教えであることがわかります。

 

仏教とアナーキズムは、かなり似ているところがあります。

 

どちらも支配を嫌います。強欲や、他者への依存を嫌います。あらゆる権威からの解放と、自己統治self-governを望みます。

 

仏教はアナーキズムと違い、隠遁主義的・個人主義的です。これは団結主義的なアナーキズムとは反しますが、エゴイスト・アナーキズムとはかなり相関がありそうです。

 

やはり、根本的な相違は、ブッダは個人の解放に重きを置いていたということです。ブッダは、迷妄に苦しむ人々から離れて、自分たちは楽しく生きていこうとしました。しかし、アナーキズムの一般的な考え方では、苦しむ衆生を解放しなければ、自分たちの解放は望めないと考えていることです。

 

たとえばアナーキストのバクーニンは1882年、次のように言っています。

私が真に自由であるのは、私をとりまく万人が、男であれ女であれ、同等に自由である場合にすぎない。他人の自由とは、私の自由の制限であったり、否定であったりするどころか、これとは逆に、私の自由の必要条件であり、その確証なのだ。私自身が真に自由になれるかどうかは、ひとえに他の人々の自由にかかっているのであり、したがってまた、私の周囲の自由な人間の数が多くなればなるほど、そして彼らの自由が深くかつ広くなればなるほど、私の自由もよりいっそう拡大され、より深く、より十分なものとなるのだ。(「神と国家」)

 

この点、政治哲学としてのアナーキズムと、聖典との違いのあらわれかもしれません。

 

こういった差異があるにせよ、全体としては、ブッダの言説とアナーキズムはかなり合致する点があります。

 

少なくとも、「神に服従しろ」「教会や教祖に服従しろ」というような宗教と、ブッダの教えはかなり違うと言えそうです。