齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

BDSMの心理メカニズム

BDSMはなぜ自発的に支配を、被支配を望むのか?

 

BDSMがずっと気になっていました。

 

アナーキズムはあらゆる支配と被支配の廃絶を望む政治哲学です。支配すること、されることは、望ましくない――それを人間の本性として前提しています。

 

しかし、もし支配と被支配を「好む」人がいれば、それはその前提を覆しかねないわけです。

 

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(引用元)

 

そして、私の好きなフーコーもBDSMでしたし、ルソーもマゾヒスト(露出狂)だったみたいです。BDSMとはなにか? なぜひとはBDSMに惹かれるか? 難しいテーマですが、それを解読することが最近の課題となっています。

BDSMは健康?

まず、近年の研究では、予想に反してBDSMの実践者は健康だとする報告があります。

 

BDSMの実践者は、普通者と比較し、抑鬱、不安、PTSD,心理学的サディズム、心理学的マゾヒズム、境界例、パラノイアの傾向が低いとされている。また、彼らは普通者と比較し、同程度の強迫性障害、高いレベルの乖離障害、ナルシシズムを示す。*1

 

BDSMの実践者は、神経質の傾向が低く、外向性のレベルが高く、このことが幸福度に寄与しているそうです。

 

ただこのデータの気になるところは、「実践者」となっているところで、潜在的なBDSMがそうなのかはわからないことです。

 

「2丁目」や「ハッテン場」に行けば、異性愛者と比較してかなり「オープンで幸福な」ゲイたちによる、開放的で楽しい空間が広がっていますが(想像です)、そのサンプルだけでゲイ全体の性格を語るような危険を感じます。

 

ともあれBDSMは(フロイトや初期精神医学が想定したように)不健康ではなく、「卑屈で自己評価が低い異常者」というわけではなさそうです。 

BDSMという権力関係の「演劇」

「痛みを与えることや受けとることではなく、権力がSMの核である。power, and not the giving and receiving of pain, is at the core of SM」

 

と、ある学者が言っています*2

 

私たちは鞭や縄による痛みがBDSMに重要なものと考えがちですが、それは「権力劇」の小道具に過ぎないのかもしれません。

 

もちろん、「痛み」を重要と考えるマゾヒストもかなり存在し、そういう人は痛みによるアドレナリン放出を楽しんでいるわけですが、そうではないBDSMも多いわけです。 

BDSMの権力は合意に基づく――一般社会と違って

まず、BDSMのプレイは「合意に基づいている」という点に注意が必要です。彼らは、支配―被支配的関係を演ずることに同意しているのであって、完全な権力関係にあるのではない。ほんとうに嫌な相手とはプレイを拒絶します。

 

もちろん、四六時中「主人と奴隷」の関係を維持するケースもありますが、これは一種の「演出」である点に注意が必要です。

 

ですから、BDSMのプレイは、世間一般の権力関係とはむしろ対照的です。それらは非合意的ですから。

 

たとえば現代社会において労働者となることは、ほとんど生きるための唯一の選択肢です。そこに至るまでには、さまざまな権力が行使されています。私たちは自由意志により、自由契約によって労働者となっている、と言われますが、現実としてはまったくの強制です。私たちは上流階級のために搾取されることに同意しているわけでもありません。

 

SMの世界においてはそういった不合意に基づく関係は求められない。ですから、BDSMは本質的な権力関係とは言えないのです。あくまで「劇」であるということです。

BDSMは現実世界を反映する

しかしながら、SMの世界は現実の権力関係をかなり忠実に、広範に「模倣」しています。BDSMは、それらをたくみに再生産しています。

 

  • SMは奴隷制や極度の管理形態を反映している。
  • 拘束はさまざまな社会の拘束を反映している。
  • 檻は刑務所を反映している。
  • 制服は軍隊や警察を反映している。
  • 医療プレイは医者-患者関係を反映している。
  • 親子プレイは親-子ども関係を反映している。
  • 学校プレイは教師-生徒関係を反映している。
  • 秘書プレイは雇用者-労働者関係を反映している。

というわけで、もちろんそうでないプレイもあるにせよ、現代の権力構造をほぼ全範囲SMは網羅しています。三島由紀夫の場合でいえば、彼は完全な軍服マニアでしたね。

 

つまりBDSMのプレイの環境下では、社会のメインストリームの無意識的な権力ダイナミクスが借用され、意識的に再生産されているということです。

 

では、なぜBDSMはそういったことをするのか?

なぜBDSMはBDSMか?

前提として、非BDSM的なふつうの人々が無意識的な権力関係にとらわれているということがあります。

 

たとえば労使関係や教師―生徒関係は、イデオロギーによって美化されたり、ときには逆転することもありますが、原則としては権力による支配―被支配関係なわけです。

 

そしてマゾヒズムやサディズムは、現代社会においては珍しいものではありません。労働者には(社畜のような)マゾヒスティックな価値観が蔓延しています(ビジネス書などはかなりマゾヒスティックです)。

 

BDSMはそういった権力関係を、意識的に、制限された場所において、純粋な形で再現します。

 

それはどういう心理なのでしょうか。ひとつは、「権力を掌握したい、自分でコントロールしたいという欲求」といえるかもしれません。

 

現代では、権力的諸関係は非常に複雑であり、容易には可視化できない……。ゆえに、個々人は、「純粋な権力」をつかみとりたい、手にとって見たい――権力を手なづけたい、という衝動が生まれるのかもしれません。

まとめ

BDSMは、現代社会の権力関係を忠実に再現した劇です。現実と違う点は、

  • 参加者の同意に基づくという点
  • 意識的に権力が行使されているという点
  • ピュアな権力関係にある

ということです。その目的は、現代社会を構成する根本的な要素――「権力を掌握したい」という願望にあるかもしれません。

 

もっともこれは、仮説にすぎませんが。

 

ただ、ひとつ言えることは、BDSMは二次的なものであることは確実なのではないかと思います。つまり、「自然状態」においてはBDSMは存在しないということです。現代社会にはあまねく権力が存在している。そのカウンターとして、BDSMが存在するのではないかと思っています。

 

やはり、支配関係それ自体はいびつであり、病的であるというのが現時点の考えです。