齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

権力は悪である

権力には良い権力と悪い権力があるのか?

それとも、権力は中立的な概念なのだろうか。

 

真の意味で社会的なるものは、個人の上に及ぼされる圧力、強制、命令であり、したがって統治である。(個人と社会 / オルテガ・イ・ガセット

 

私たちのほとんどは、被支配者です。会社員は会社に、子どもは学校や家族に支配されています。また、私たちは国家に支配されています。自民党に、皇室に、富裕層に支配されています。

 

権力は必ず、自らの支配を肯定しようとします。

 

会社は賃金を与えているから、子どもは未熟で導かれる必要があるから、自民党は選挙で選ばれたから、天皇は日本人の精神だから、資本家は有能で勤勉だから――君を支配しているのだよ、と。

 

つまり、彼らの権力の行使は「良い権力」であり、したがって「良い支配」ということになります。

 

こういったことは、宗教によくあらわれていると思います。ほとんどの宗教は、自らの宗教こそ正当であり、唯一無二の「聖なる力」を有しており、その他のすべては邪悪なものだ、と教え込みます。

 

あらゆる国家は、自らの国こそ正当であり、その他すべては邪悪なものだ、と教えます。なので、単純な人は愛国心を抱いてしまう。

 

しかし、人間による人間の支配は、ほんとうに正当化できるのでしょうか。 つまり、正しい支配はありうるのか。善良な権力の行使はありうるのか。

 

そういうことを考えていたのですが、実は正当な権力行使などありえないのかもしれません。

もしもあなたが王様だったら 

Larken RoseのIf You Were King(Youtubeのアニメ*1

 を読んでいたら、権力ってそれ自体が悪なのではないか? と思うようになりました。かなり長いですが、引用していきます(強調は原文より)。

 

さて、世界はひどい混沌の場であるが、もし君に権力があれば、どれだけすばらしいかを考えてみよう。

 

もし君が世界の王様として選ばれ、無限の権力を与えられたらできる善行のすべてを考えよう。

 

君は世界をまったくのユートピアにすることができる。君は貧しい人に食べさせ、ホームレスに家を与え、邪悪な人間に打ち勝ち、善良な市民を守ることができる。君は世界を守ることができる! 

 

全員が君を愛し、感謝してやまないだろう。もし君に権力があれば、君はすべてを正しく、公平に、安全にすることができるかもしれない。

 

ええと、ありえない。それは無理だ。君は努力するだろうし、うまくやるかもしれないが、偉大で高貴な計画はすべて崩壊し、あなたは暴君へと変わるだろう。

 

このことは、君がバカだとか、君が悪人だということを意味するのではない。もし君がまったくの賢人で、最良の意志をもっているとしても、良いことに権力を用いようとする努力は、絶対的に、完全に、徹底して失敗する。なぜか?

 

いくつかの例を考えてみよう。

第一計画:貧者を助けよう

慈悲深い王として、あなたは貧しい人々を助けることに決めた。貧しい人々に多くの糧を与えようとした。たしかに、それは高貴なことであり、社会をよくするだろう?

 

まあ、そんなわけがない。理由を示そう。王、議会、その他なんだろうと、政府はそれ自体なんら富を生みださない。あらゆる富は、まずだれか他者から奪われるのである。王として、あなたが貧者に富を与える前に、だれかから富を奪わなければならない。

 

しかし、富を渡そうとしない人がいるとしよう。彼は貯金したいとか、自分自身で使いたいとか、あなたが汚い仕事をしていると考えているとか、どんな理由でもいいが、彼はあなたの計画に資金提供したくない。君はどうするだろうか?

 

もし君が王ならば、君は単に愛想よくお願いするだけではない。だれでもそうすることはできるが、しかしだれもそれに耳を傾けたり、協力する必要はない。

 

王として、あなたは人々に資金提供するよう「命令」するだろう。そしてそれらの「命令」は従わない者への「処罰」の裏打ちがなければ、単なる提案にすぎない。農民のなかには余裕がない者や、君が正しく金を用いないと考える者や、金をとっておきたいと思うものがいる。

 

君はどうするだろうか? 放置するのか? もし君が権力を維持したいのであれば、そうはいかない。もし君の臣下が何ら影響なくあなたを無視できるなら、君は権力を持たないことになる。

 

さて、君の計画に資金提供しない農民は処罰されなければならない。その前例をつくろう。突如として、君は寛大さで物を与えるのではなくなる。君は君のやり方でしたくない人々を傷つける。君が農民を処刑しようと、投獄しようと、彼の家を焼こうと、彼の物を奪おうと、なんだろうと、君は彼が単に金を奪わせないという理由で、彼に危害を加えているのである。突然、王でいることは労ることや寛大でいることではなくなる。与える助けることでもなくなる。王でいることは、管理することや、処罰することになる。人々を脅し、傷つけることになる。

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Pez Dispenser, 1984 by Jean-Michel Basquiat

第二計画:公益に奉仕しよう

次に、君は子どもたちがよい教育を受けられるよう、公教育をつくろうとした。君は大図書館や、公園、博物館、動物園、すばらしい道路制度、病院など、人々のためになるものを作ろうとした。人々は君を「慈善的」「思慮深い」と愛することだろうが、しかしふたたび、どうやってそれを支払うか? という問題がある。

王たちは自分で一生懸命働いて王宮や金の山を獲得したのではない。彼らはそれらの物を、臣民に課税することによって得たのである。君の費やすすべてのペニーは、自分のために使おうが、いわゆる「公共事業」のために用いようが、最初に農民から君が奪ったものなのだ。現実には、君は彼らに何も与えてはいない。君は単に、彼らの金を、彼らのために使っているだけなのだ。

もし彼らがなにか他の方法で金を使いたいとしたら? もし君がだれもに自分で金を使えるようにしたら、君は何ら権力を持たないことになる。愛想よくお願いすることは役にたたない。もし農民が図書館のために金を払うのではなく、大きな家を買いたいと思ったり、公立学校のために寄付しようとせずに土地を買ったり貯金したい場合、君はどうするだろうか? もし君が何もせず彼らの好きにさせれば、君の権力は消えてしまう。再度、王でいるために、君は君の計画に出資しない人々を処罰することになる。

さて、単に君が自分の物を与えるのではなく、君が彼らの金で彼らのものを買う――これだけではなく、君はまた彼らの金を提供せずに抵抗する者を、投獄処罰することになる。君は「彼らのためだ」とか、君の計画は「全人類にとって良いことだ」と大声で主張することができる。しかし、そのように物事を見ない人が入れば、君は傭兵を送りだし、異議を唱えるものをすべて押しつぶすだろう。

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King by Jean-Michel Basquiat

第三計画 良い選択の強化

さて、臣民のものを彼らから盗んだ金によって彼らにものを買うことで寛大な王となろうとすることは、君が思ったほど、気高くも楽しくもなかった。では、違ったアプローチをとってみよう。

 

君は自らの権力と権威を用いて、人々のより健康な生活を実現することに決めた。君はだれもが少なくとも一日一時間運動し、バランスの取れた食事を摂ることを要求した。間違いなく、あなたの臣民の健康を改善するだろう。だれがこれに不平を言おうか? なにか間違いが起こりうるだろうか? 

 

ええと、もしだれかが従わないとしたら、君はどうするだろうか。もし野菜を食べようとしない農民がいたら、君はそれについてどうする? 愛想よくお願いするか? 権力を持つということは、お願いすることではない。命令だ。そして、命令はもし不服従の際の懸念がなければ、命令たりえない。したがって、遵守しない者は処罰されなければならない。君が農民の金を奪い、それを「罰金」と呼ぶとしても、彼を投獄するとしても、公の場で鞭打つとしても、君は単に彼が君の助言に従わないからといって、一方的に、意図的に公的に彼を傷つけなければならない。

 

喫煙、飲酒、ドラッグ、キャンディーの食べ過ぎを君が禁じるとしても、反抗する農民には悪い結果を与えなければならない。君の提案や選択がどれほど良いものであると君が考えるかにかかわらず、君は傭兵たちに強制的に処罰させなければならない。君が考え、君が命じたそうあるべきという選択を拒絶するものに対しては。

 

結果として、突如として君は単なる助けてくれるリーダーではなく、悪質なチンピラとなってしまう。たとえ人々に強制する君の選択が、彼らが自分でそうするべきことであるとしても、君の善良な意図は、権力の実践と結びつけられたときに、暴力行為となる。突如として、君の被害者たち――つまり君の臣民――は、もはや感謝しないようである。実のところ、彼らはあなたと、あなたの寛容な計画に憤慨している。でも、君はまだ君の権力を良いことに使える方法が見つけだせるかもしれない。

第四計画:善良な人々を守ろう

臣民に良い選択を強制したり、有用な計画に出資させようとするのではなく、もっと基本的なことに留まってはどうだろう。つまり、善き人間を、君の王国(この場合全地球)に住むだろう卑しい詐欺師やチンピラから守るのである。もちろん、このことには何も間違ったことがあるはずがない! もし権力を良いことに使う方法があるとすれば、善良な人を邪悪から守ることである。だから、これこそが君が王として世界をよりよい場所にするために献身すべきことなのだ。

しかし再び、君の臣民たちは出資についての選択肢がないことになる。もし彼らが君の執行者が濫用的腐敗していると考えたり、君の考える正義がと考えたり、君の警護サービスがコストに合わないと考えるとき、君は彼らが出資しないのを許すだろうか? 君が王でい続けたいなら、そうしてはならない。君が雇った傭兵たち、君が建てた監獄、君が戦争機械と共につくりだした軍隊は、臣民たちのすべてが望んだものではないし、その役割に同意したわけでもない。君はただ言うだろう。「私は最善を知っている!」「これは君たちのためなのだ!」そして支払いをしない人々を閉じ込めるのか? 君は君のバージョンの正義、そして安全を彼らに強制し、彼らに支払うことを強制し、そして彼らにそのことを好んだり、君に感謝することを期待するのか?

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Trumpet, 1984 by Jean-Michel Basquiat

君がしていることは、君のいわゆる「安全」を望まない人々から、その料金を回収するために武装したチンピラを送り込みながら、人々の安全を守っているということである。君は救世主や救護者というよりも、マフィアのように見える。もしいくらかの農民が自衛を望んだり、君の持つまぬけではなく、だれか別の人を雇いたいと望むとき、君は彼をそのようにさせるか、それとも彼に君の概念である「正義」や「安全」に出資するよう、強制するだろうか? もし農民が君の軍隊がしていることやそのやり方を好まない場合、君は彼に、君の計画の経済的支援をしない選択肢を与えるだろうか?

ふたたび、君の権力を保つために君は暴力的に臣民に君の計画を強制しなければならない。彼らに出資するよう強制し、抵抗を押しつぶし、チンピラや詐欺師から「守る」という名目で何でもやらなければならない。そして、このことは少しばかり皮肉である。君が日常的に人々を「守る」という名目で侵害しているときに、高貴とか正義正直という感覚を抱くことは難しい。

第五計画:城の中で座って何もしない

そんなわけで、世界を「治す」ためにあなたの得た無制限の権力を用いるという野望は、そんなにうまくいかないことがわかった。君は良いことをしようとし、配慮同情的であろうとしたが、すべては結果として恐怖暴力となった。結局のところ、法律と政府はそのようなものだからだ。

 

さて、絶望してあなたは何もしないことに決めた。君は臣民を放おって、城のなかに隠れ、拗ねていることにした。だが、待ってほしい! だれが君の城に、君の守衛に、そして君の持つ贅沢品のために支払うのか? たとえ君がそれらのほとんどを手放すとしても、臣民たちはだらしなく座ってるだけの君に自主的に支払うだろうか? 彼らは彼らの現実に立ち向かっているというのに? 疑わしいことだ。

 

だから、もし君が王として贅沢な暮らしを続けようとするなら、君は臣民にそのための出資を強制をしなければならず、そしてこれが意味することは、たとえ君が農民たちに何もしなくても、君は依然として守衛が必要であり、軍隊が必要であり、税金回収人が必要であるということである。ただ王で居続けるために。

オチ

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King Alphonso by Jean-Michel Basquiat

以上から最後の議題にたどり着いた。君がすべきことである。

 

君が王となり、すべてを支配する役目につくよう言われたとき、君が言うべきことは、「ノー」だ。君の仲間を支配し、命令する機会を与えられたときに、君はそれを拒否すべきだった。もし他者に向かう権力を与えられたら、君がその権力ですべきことは何もない。絶対的に何もない、なぜなら残虐な強制を通じた権力では、世界を正すことができないからだ。 


権威主義的コントロールは、それが王に握られようと、選挙による政府によろうと、立憲共和制だろうと、社会を改善することはできない。なぜか? すべてのそのような権力は、その本質として、人々を脅迫し傷つけるものでしかないからだ。そして、君の意図がなんであろうと、君は人間社会を改善することはできないし、君は平和な文明を築くことはできない、人々を脅し、傷つけることによっては。そんなことは明瞭で、自明ではないだろうか?

 

悲しいことに、ほとんどすべての人はまったく狂った考え方をしている。人間という種は、支配管理を強制するために脅迫傷害が許された少数の人々によって、より道徳的になり、文明化されるのだと。このような考えは純粋な狂信である――その狂信が人気であるかどうかにかかわらず、それがどれほど多くの「修辞」と「言い訳」の山の頂点にあろうと。

 

君は憲法や選挙、政府に対して決まり文句を言うことはできる、「支配される者の同意」がどうのこうの、云々、しかしそのことは現実を変えはしない。そして、客観的に物事を五分考えられる人ならだれでも、この状況がそうなっていることを理解できるだろう。

 

権威主義的な権力は、あらゆる形態において、その目標と動機がなんであれ、この社会における侵害であり、不道徳な暴力である。ナイスなスーツやファンシーな帽子や、壮大な建物や、セレモニーや宗教儀式の数は関係ない。王だろうと、君だろうと、選挙によって選ばれた政治家であろうと、支配のための権力は、常に、そして本質的に、人間の持つ力に真っ向から反対する。

 

世界を直したい? 王冠を投げ捨てよう。政治を無視しよう。隣人を脅迫し、攻撃し、強盗することはやめよう。そして隣人を脅迫し、攻撃し、強盗する者には投票してはならない。


あなた自身の、または権力者の力で、他者に自分の都合のいいように強制したり、君の願望のために出資するよう強制してはならない。

 

そのかわりに、君の隣人を、彼が自分自身を所有しているかのように扱おう。なぜなら、彼は事実そうなのだから。

 

まとめ 権力は悪である

権力は本質的に悪である。なぜなら権力は脅迫threateningであり、傷つけることhurtingだから、ということのようです。

 

たしかに、脅さず、傷つけることのない権力は想像できません。

 

権力はヒエラルキーの縦構造を維持する働きがあります。つまるところ、資本主義や国家といった縦構造の象徴は、その本質として悪ということになるのではないでしょうか?

 

国家は悪である。 - 齟齬

支配とヒエラルキーの起源 - 齟齬

 

 

どれだけ権力を追求しても、対象を掌握しえないという本質的な無力さゆえに、権力の追求は目的についてのあらゆる考察を斥ける。やがて避けがたい転倒が生じて、ついには追求がいっさいの目的にとって替わる。歴史上にあふれかえる無思慮と流血を説明するのは、手段と目的の関係の逆転、すなわち根元的なこの狂気なのである。(自由と社会的抑圧 / シモーヌ・ヴェイユ)

 

 

放蕩者は自分の意志で悪癖をやめることはできないかもしれないが、少なくとも年をとるにつれて悪癖のほうが自分のもとから去っていくようになる。それに対して権力を愛する人はその悪癖をやめることも、悪癖のほうが去っていってくれることもない。年をいくらとっても、そのおかげで悪癖が中断されてほっとすることはなく、かえって、欲望をいっそう大規模で華々しい形で満足させることがたやすくなるために、その欲望すなわち権力欲が前より強くなってしまいがちなのである。(永遠の哲学 / オルダス・ハクスレー)

 

*1: