齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

偽りの自分、本当の自分

あなたはほんとうの自分を生きていますか?

 

と唐突な問いですが。 

どうだろう、わからない……という人が大半ではないでしょうか。

 

現代社会の特徴は、ひとびとの精神が引き裂かれていることにあります。

 

私たちは、学校や家庭において、「あるべき自己」を教え込まれます。お利口でいなさい、強い人でいなさい、明るくあれ、勤勉であれ、目上の人に忠実に、甘えてはいけない、不平を言うな、偉くなれ、美しく清潔でいなさい、というように。

 

生まれもった、ありのままの自己は家庭や学校において拒絶されます。私たちは外部の、文化や社会によって用意された「理想の人物像」を忠実に演じるようになります。

 

すると、奇妙な、しかし決定的な現象が起きます。本来の自己は抑圧され、いつの間にか「理想の人物」が、自己として認識されるようになるのです。

 

私たちは「自分ではない自分(偽りの自己)」を自分だと認識し、いつのまにか、「自分ではない自分のために生きる」ことになります。

 

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たとえば、です。

 

一流大学に所属し、だれもが羨む企業に内定をもらった大学生が、内心は前途に深く嫌悪と絶望を感じている、ということはよくあることです。

 

無事に天下りをして、年収3000万円で日々無意味な仕事をしている元官僚は、なんでもいいから意味のある仕事――だれかに感謝されるような仕事をしたいと思っています。

 

温かい家庭を持ち、理解のある主人とかわいらしい子どもを持つ奥さんが、本当は心から孤独を望んでおり、家族なんてどうでもいいから、どこかで孤独にひっそりと暮らしたいと思っていたりします。

 

これらはよくあることです。……あまりにも、よくあることです。


しかし無理からぬことです。親や教師に服従せざるをえない無力な子どもにとって、ほんとうの自己を偽りの自己に服従させることは、生存のための唯一の方法なのです。(学校教育と奴隷化

 

わたしたちの頭の中の機械

アナーキスト・ライブラリーを見ていたら、同様のことが書かれている文書があったので紹介します。この文章、個人的には強烈にインパクトがありました……。

 The Machine in Our Heads | The Anarchist Libraryより。 原文はGreen Anarchist誌の1997年夏版 16–17ページ

 

偽りの自己 The False Self

私たちは自分の主人を内部化する。

 

このことは、トラウマに対する心理学的な反応として知られている。圧倒的な恐怖に直面したとき、人間の精神は、そのある部分において抑圧者の模倣をするようになる。これは鎮静、緩和のための行為である。

 

「見て」とその精神の部分は効果的に言う。「私は君に似ている。だから私を傷つけないでくれ」。

 

文明化のプロセスの結果として、「侵略者との自己同一化」として知られる心理的な防衛機制とともに、私たちは文明化の代表者たちのさまざまな聞き慣れない声を聴く。これらの声によって、私たちはもはや自らの種族的、原始的な声を聞くことはなくなる。

 

深い思考deep thinkingが人間精神において再び始まるためには、これらの内なる権威を打破し、種族的な思考を妨げる抵抗に打ち勝たなければならない。現代の問題は、単に私たちが原初的な概念を聞こうとしないだけではない。むしろ内なる反発力や、自己疎外的なアイデンティティによって、原初的な概念が押しやられ、矛盾として扱われ、意識にあがることができないことにある。

 

これらの自己―疎外的なアイデンティティは、生涯に渡って構築され、明確な、限定的な人格、またはルールと規制を強化するような偽りの自己を凝固し、形作る。この偽りの自己は、公共における凍ったような表情、ステレオタイプのジェスチャーのような行動パターンによって観測される。

 

偽りの自己は、私たちの日常生活のほとんどを決定する。したがって、私たちは自分自身に由来する行動をほとんどしていないことになる。私たちは危険の兆候や、ストレス下において、または単にそれがもっとも容易だからということで、この偽りの自己へと逃げ出してしまう。

 

この無思考の社会的ロールプレイングにおいて、私たちは自らの自らへの抑圧を、内部的に再生産する。

 

トラウマはだれかを文明化する上では必須である。というのも、自然で、成熟した自己は文明の概念を受け入れないからである。その概念――たとえば、階級、私有財産、国家――は私たちの種族的な性質とは真逆であり、だからこそ彼らは強制的に人間精神に押し込むのである。

 

このことにより、心が破壊され、心の領域を分断し、侵入した敵によって自己が降伏させられる。偽りの自己は人間精神に統合されることは決してないが、しかしその代わりに異物として、精神を占拠し、通常の/健康な精神生活とは別に存在し、その上に立つ。

本来の自己 The Original Self

偽りの自己の下には、まだ本来のアイデンティティが生きている。この本来の自己は、強制的に課された外部の人格とは別であり、それよりもずっと古いものである。この本来の自己、原初的primalな自己は、文明化のトラウマによって心が破壊される前の幼少時代のものである。また、依然として個人のアイデンティティの核心であり続けているものである。

 

この本来の自己は、真理のもっとも古い階層に密接に関連している。したがって、本来の自己は内的な直感、原始的な願望、種族的な概念に直接的にアクセスする。

 

文明化において、本来の自己は、現状の偽りの自己と、種族的な自己の蜂起との戦争の間に置かれている。たとえ個人が自らの個人的アイデンティティを持ち、偽りの自己に転落することを拒絶することに成功したとしても、民族的な声は聞こえないままであり、偽りの自己に黙殺されることとがしばしばある。

 

明確で限定的な人格として、偽りの自己は、少なくとも種族的な概念を抑圧するという意味において、病んだ精神における命令的な自己に対する反対意志として成功している。

 

種族的な概念は文明を脅かすため、偽りの自己の検閲を通らなければいけない。偽りの自己は、文明への深刻な反抗を避けるため特に機能している。

 

さらには、偽りの自己は、現代世界の広告などによって、社会管理と意識の操作の形態が改良されることによって、より自律的となり、拡大していっている。

 

いったん心が壊れてしまえば、文明の残酷な力に裏打ちされた偽りの自己が、私たちの生活を支配する。本来の、原初的な自己はより自閉的となり、社会的現実からの積極的な関与からひどく遠ざかるようになる。

 

しかし、すくなくともときどきには、偽りの自己の下にある私たちの原初的なアイデンティティの目覚めがある。したがって、幼少期に、原初的な精神プロセスをもっとも効果的になされた抑圧を、解除する望みはある。

真の自己 The True Self

人格発展の正常な心理的基礎である自己同一化を通じて、個人の本来のアイデンティティはより優れた、偉大なものになり、真の自己への道のりへと広がっていく。

 

この自己同一化のプロセスは、人格の連続性が確保されない場合、つまり精神において分断が存在し、新しい心理構造である、偽りの自己が生まれたときに、病理的なものとなる。

 

この心の破滅は、不幸にも現代の文明化された人間による強制的な訓練や教育を通じて起きる。対照的に、自然で正気な人間精神の発展は、そのさまざまな段階と機能において、どのような、僅かな区切りも伴わない。真の自己は、本来の自己との連続性であり、集大成である。本来の自己が種族的な自己から発達するのと同様、真の自己は本来の自己から発達する。結果として、心理的な真実は種族的な自己と本来の自己を共に含有し、そしてそれらの動的な相互作用によって、真の自己の発展となるのである。真の自己は、展開し、発展するものである。

 

トラウマ的な文明化は本来の自己を抹殺しないが、種族的な自己を意識にあがらせる流れを止める。それは人格のより高い/成熟した発展を、捕縛し、歪めてしまう。私たちが深い思考を再開し、真の自己となるためには、内的、外的に文明を押し戻し、究極的には解体する必要がある。

まとめ 

反文明主義的な記述があるので面食らった人がいるかもしれませんが、内容としては非常に優れていると思います。

 

結局のところ、私たちの不幸とは「自分自身になれていないこと」にあります。

 

日本の哲学界で、「魂の植民地化」という言葉が流行った(気がする)のですが、これは良い言葉です。現代では、まさに私たちの精神のかなりの部分が、植民地化されているのです。 

 

 

生のどの瞬間もわれわれに何事かを語ろうとしている、しかしわれわれはそれを聞こうとしない。われわれは閑居していると何ごとかがわれわれの耳に囁かれるのを怖れているーーだから静けさを憎み、社交の騒がしさによってみずからを欺くのだ。人間というものは力のかぎり苦悩を避けるが、苦悩そのものよりも苦悩の人生の意味を求めることを避け、いつも新たな目標に目を向けることによって背後にあるものを忘れようと努める。(ニーチェ全集 第四巻)

 

自らを自己を高めるべきである。自己を沈めてはならぬ。実に自己こそ自己の友である。自己こそ自己の敵である。自らを自己を克服した人にとって、自己は自己の友である。しかし自己を制していないものにとって、自己はまさに敵のように敵対する。(バガヴァッド・ギーター)