齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

家族は資本主義イデオロギーである

たまたま湘南乃風の「やめちまぇ」という曲を聴きました。

 はじめは「嫌な仕事なんてやめてしまえ」という曲なのだと思ったのですが、違うようです。

 

やめちまぇ! そんなに辛いなら
やめちまぇ! 言い訳聞きたくねぇ
やめちまぇ! そうやって逃げればいい
やめちまぇ! 誰かのせいにしてろ
いっそ生きることさえも
やめちまぇ! やめちまぇ!

(湘南乃風「やめちまぇ」より)

 

これがサビなのですが、意味はまったく逆。「がんばれ、さもなくば死ね」という過労死応援ソングでした。歌詞(外部サイト)を要約すると以下のとおりです。

 

  • 家族や愛する人を守るために
  • やりたくないとか、だれが悪いと不平を言わずに
  • 希望を捨てず、逃げ出さず(辞表を出さず)
  • 労働を続けよ
  • さもなくば死ね

 

これを聞いて気づいたのですが、現代では「家族」がかなり理想化されているようです。この歌だけではなく、映画や文学においても家族のために自分を犠牲にすることは「理想的なあり方」だとされます。

 

家族という概念が、労働や服従、自己犠牲を正当化しています。でも、家族とは、私たちにとって本当に大切なものでしょうか。自然なものでしょうか。もしそうでないとしたら、家族を大切にすることによって、だれが得をするのか?

 

イデオロギーとしての家族

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Maria Kreyn - alone together - 2012

 

Susan Rosenthalという医師で社会主義者の記事から引用します。

非常に共感できる内容なので、たっぷり引用。

The myth of personal life under capitalism | Socialist Review

 

子どもの頃、誕生日を迎えるたびに、自分で物事を決められる大人になることを熱望した。実現してみると、大人の自由は幻想であることがわかった。子どもの頃のエキサイティングな生活の夢は、終わらない労働と、少しのショーに置き換わった。

 

私たちは失敗者のような気分を味わっている。何を間違えてしまったのか? 答えは、何も間違えていない。私たちは何も悪いことをしていない。これは資本主義の機能なのだ。

 

巨大なカジノのように、資本主義は多くを約束し、僅かしか与えない。ほんのわずかが金持ちとなり、彼らと同じ成功者になれるという神話を再強化する。しかしゲームは資本家階級に牛耳られている。私たちがより懸命に働けば、彼らがさらに富む。そして私たちはさらに病む。

 

彼らは個人選択の自由という幻想をさしむけ、私たちに自らを攻めるようミスリードする。

 

封建農耕社会においては、労働と生活は労働者階級において統合されていた。彼らは一緒に働く人々と一緒に生活していた。

資本主義は物理的に生産を家族から引き離し、労働のない空間を生みだした。それは「個人生活」や「自由時間」と言われた。

実のところ、それらはなんら自由ではない。労働者の生活は資本主義の要求によって決定づけられるからだ。労働に準備するため、通勤のため、労働に向けて回復させるため、そして次世代の労働者を生みだすための要求である。

これらの再生産は資本家の利益とはならないが、彼らがいなければ生産は止まってしまう。このことは産業革命時、イギリスの工場労働者の寿命が18歳にまで低下したとき明らかになったことだった。

 

 資本家階級は託児所や児童ケアセンターを造り、台所や集合住宅をつくることで新しい労働者を確保しようとした。

 

代替案は個々人に再生産の責任を追わせるものであった。法律によって女性と児童の労働が制限された。男性は「家族給」を与えられるようになり、法的に女性や子どもを支援する責任が与えられた。これらによって男性が家父長となり、両親は法的に子どもの責任を持つようになった。離婚は制限され、同性愛は違法化された。

 

労働者階級の家族はひとつの機能をもっていた。再生産――日常的に労働者のエネルギーを再生産する、そして次世代の労働者の再生産をする。ロマンティックな化粧板を外したとき、結婚とは基本的にふたりの人間がそれぞれの面倒を見、ふたりの子どもの面倒を見る契約である。社会が面倒を見ないからである。

 

村落が提供していた再生産機能(感情的、社会的、物質的な支援)は、今では結婚したパートナーの責任になった。「ロマンティック・ラブ」の概念はその移行を補助するために創られた。最初のロマンス小説は1740年に生まれ、ジェーン・オースティンが人気を博したのは1800年代前半である。今日、ロマンティック・ラブの販促は数億ドル産業である。しかし、高確率の離婚率が、ひとりの人間がもうひとりの人間にすべてを要求することがほとんど不可能であることを示している。

 

近代家族は働く女性の犠牲によって成り立っている。資本主義がアフリカ系アメリカ人の奴隷制を促進するために人種差別を必要としたように、子育てへの社会保障を否定するためにセクシズム(女性差別)が必要である。セクシズムは女性の第一の役割を子どもを育てることにあるとし、労働者階級の女性に子どもを持つか持たないか、いつどのような状況で子どもを持つかの決定権を否定した。女性は不適切な妊娠退職により、妊娠後の雇用保障がなく、低賃金によってほとんどの女性を高賃金の男性に依存させた。

 

セクシズムはまた、男性を家族システムに縛り付けた。「家族の義務」は男性を仕事に縛り付けた。彼らが働かなければ、家族は去ってしまう。男性は女性と子どもを支援することが期待される。離婚して、別の人と再婚した場合であってもだ。

 

私たちは家族と生活することを選択しているのではない。私たちはそれに閉じ込められているのだ。家族のもつ覇権から逃れようとしたものには、家庭に引き戻すために、司法システムが処罰する。離婚した夫婦は、高価で忍耐強さを要求する法的手続きが必要である。子育ての義務を怠った両親は法的に処罰される。家庭から家出した少年少女は強制的に家庭に送還される。ゲイの人々は、差別や暴力、殺人の被害者となりつづける。

 

 

選択肢の欠如を美しく表現するために、ロマンス、結婚、家族は生活のための最良の、ただひとつの方法として促進される。

 

 

ほとんどの労働者階級にとって、服従が要求される。質問は許されず、反抗は処罰される。子どもたちは資本主義にとって問題である。というのも、子どもたちは生まれつきの科学者だからだ。彼らはなにもかもに「なぜ?」と問いたがる。

 

子どもたちが資本主義の不公正を受け入れるためには、探究心を破壊し、服従に導かなければならない。このプロセスは家庭にはじまり、学校で強化され、職場で固定化される。子どもたちの「なぜ?」に直面したとき、ほとんどの大人たちは答える際にひどく抑圧され、恐怖を感じ、狼狽するようになる。大人たちの不満な態度によって、子どもたちは質問が許されないのだと認識する。 

 

子どもたちを服従者、生産と再生産の機械にするために、反逆につながるような私たちのすべての面を拒絶するようなプロセスが永続化される。私たちの好奇心や、知ること、価値付けること、そして自分たちの生活や世界を築き上げること。結果として、私たちは完全な人間となることができない。私たちが自分自身の一部が無価値だと感じるとき、自分を見せることを恥じるようになり、私たちの人間関係は表面的で不安なものになる。……私たちは空虚で孤独感を感じ、自らを責め、互いに罵るようになる。低い自己評価、不安、鬱病、痛みを紛らわせるための依存症。

 

(Susanさん、ぺんぺん草も生えない勢いで現代社会を攻撃してますね……。) 

まとめ

私たちは「家族」を、私的でプライベートな空間、自然で当たり前のもの、血族的な、生物学的なつながりだと考えています。

 

しかし現実には、家族は「生産性の高い元気な労働者」や「次世代の労働者」の再生産のために存在します。子育てや労働はハードワークです。夫婦は大変な思いで子どもを育てます。それらのすべては、資本の利益追求が目的となっています。

 

そういった役割があるので、映画や音楽などのメディアなどを通じて理想化(イデオロギーの再強化)がなされます。「子どもがいるだけで幸せだ」「子育てはやりがいがある」「子どもを育て上げることは立派だ」「夫婦は助け合うものだ」「夫婦愛はすばらしいものだ」というような。あらゆるイデオロギーがそうであるように、ほぼ実現しない・実現不可能な理想像が提示されます。国家はときに強制力をもって諸個人を家族から逃げ出さないようにします。家族を見捨てることは慰謝料や養育費のような法的な罰を受けます。

 

「家族」によって男性は仕事から逃げだせませんし、女性も子育てや家事労働から逃げだせません。子どもたちは親や学校から逃げだすことが不可能になっている。人々は労働から逃げだせないのと同じ諸力の働きで、家族から逃れることができない。鎖に縛りつけられているかのように。

 

結局、資本主義社会とは賃金奴隷制Wage Slaveryなのかもしれません。

 

「湘南の毒」へのアンチドーテ

  • 家族や愛する人を「守る」必要はありません。あなたがいなくてもどうとでも生きていけます。
  • やりたくないことはやりたくないと言いましょう。やりたくないのだから。
  • だれかが悪いのだと不平を言いましょう。あなたは何も悪くないのだから。
  • 「がんばっていれば良いことがある」という希望を捨てましょう。がんばり続けたところで何も変わりません。
  • 辛ければ、辞表を出して逃げましょう。仕事をやめていいから、生きることを第一に考えましょう。