齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

邪悪な人間は存在する

私は性善説を支持します。

基本的に人間は善良だ――と思っているワタクシです。

 

人間の本性は善である――基本的に - 旧齟齬

 

でも、人は順応性が高い生き物です。

なので、家庭や学校やメディアのイデオロギーによって悪人が「作られる」ことがあります。それでも彼らは基本的には善良です。たとえば学校のいじめっ子も、基本的には善人なのだと私は考えています――学校教室は、スタンフォード監獄実験と似た状況にあるのでは?

 

しかし、少数の悪人は存在します。悪そのもの、永遠に善良になりえない人々です。このことは認めなければなりません。(だいたい、悪人がいなければ現代社会はクソになりません笑)

 

実際に、私のしょーもない人生経験でも生粋の悪人を目にしてきました。「この人とは、絶対にわかりあえない。いくら共感や和解を試みても不可能だ」というような人です。

 

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彼らの近くにいると、血圧が上昇し、頭痛がし、体力を異常に消耗します。全身が「生理的に」拒絶しているのです。

 

邪悪な人間は自己を怖れている

アメリカの心理学者であるM. Scott Peckの「平気でうそをつく人たち」は日本でもベストセラーになりました。ちょっと今さらな感じもあるのですが、「悪とは何か」を調べているとペックさんが紹介されていたので、引用してみました(ダメ翻訳ですが)。

 

人々や、人々によってつくりあげられた機関のなかには、良心の前に憎しみで反応し、力が届く限り良心を破壊するようなものが確かに存在する。彼らは自覚的な悪意ではなく盲目、自らの邪悪さに対する自覚の欠如によってそれを行う――事実上、そういった自覚を回避しようとして。宗教書に登場する悪魔に表現されているとおり、彼らは光を嫌い、光を消滅させようとするなど本能的に光を避けようとする。彼らは自らの子どもや、権力の届くすべての他の他者に対して、光を滅ぼそうとする。

 

邪悪な人々は光を嫌う。それは自分自身に自分自身を明らかにすることだからだ。彼らは良心を憎むが、それは自らの邪悪さを示すからである。彼らは愛を憎むが、それは自らの怠惰さを示すからである。第二の結論は、悪は怠惰さが極限まで高められた状態だということである。私が定義したように、愛は怠惰のアンチテーゼである。普通の怠惰は、愛情の受動的な失敗である。普通の怠惰な人の中には、そう命令されない限り、指を持ち上げることすらしないだろう。彼らの存在は愛の不在の象徴である。しかし、まだ悪ではない。

 

本当に邪悪な人間は、一方で、受動的というよりは積極的に自己の拡張を避けようとする。彼らは自らの怠惰を守るために、自分の病んだ自己の完全性を保つために、あらゆる行動を取るだろう。他者を成長させるのではなく、彼らはこの理由によって、他者を破壊する。必要な場合、彼らは自らの霊的成長の痛みから逃れるために、殺人すらするだろう。病んだ自己の完全性は、周囲の人間の霊的健康に脅威を感じる。そのため彼らは身近にある霊的な健康をあらゆる方法によって破壊しようとする。

 

私は悪を、政治的権力の行使ととらえる――すなわち、公然と、あるいは暗に、他者に自分の意志を強制する――自分自身を拡張することを避けるために。通常の怠惰は愛の不在である。邪悪は、愛に反対することである。

On evil by M. Scott Peck (Gurteen Knowledge)より

 

 ペックさんの言いたいことは、邪悪な人が怖れているのは、まず自分自身だということです。 彼は自分の邪悪さを正当化したいがために、他者の良心を破壊し、自分の周りから「光」を破壊しようとします。きれいな花を見ると踏みにじる系だと言えます。

 

それにしても、ペック氏は悪を「 政治権力の実践the exercise of political power」と定義しているのですが、これは「政治家は悪である」という私の意見と重なるところがあり、興味深いところです。

 

 現代では、国家の中枢に悪人が集まっていますから。教科書やテレビを通じて、効率的に悪が「伝播」している、と言えるのかもしれません。まじめな話、学校もマスメディアもすべて廃したら、人はもっとまともに育つのかもしれません。

 

ところで、ペック氏は性善説に肯定的なようです。というのも、人間の本性が悪であるなら、悪人は内なる自己におびえる必要はないはずですから。


人は基本的に善人で、例外的、二次的に悪が存在すると結論づけられそうです。