齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

「人はみな同じ」という誤謬

「人はみな平等」という言葉を聞きますが、平等なわけがない。狡猾な人間は愚鈍な人間の血を吸います。これは昔からそうですし、たぶん未来もそうです。

 

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Dougal Dixonの“Man After Man”より。

 

では反対に、愚鈍な人間に狡猾な人間の血を吸わせたらどうなるでしょうか。

 

今の日本でいうなら、非正規労働者が経営者になって、ユニクロ楽天の社長を時給900円で働かせるようなものです。

 

これは絶対にうまくいかない。

 

狡猾な人間と愚鈍な人間は、言ってしまえば「別の種族」です。愚鈍な人間は、「俺は搾取されているときの方がよかった、幸せだった」と思うはずです。

 

マルクス主義では、資本主義を打倒してから、共産主義に至るまでプロレタリアートが独裁を行わなければならないとしていますが、そんなことはうまくいくはずがありません。プロレタリアートに甘んじている人は、ある程度プロレタリアートであることが「好き」なのです。他者を支配することは苦手であり、したくなくて、支配されることに安らぎを感じているのです。(奴隷という安逸 – 齟齬

 

「人間」の発明

私たちは人はみな同じだと考えています。私たちは、天皇にも安倍首相にも同じように肺があり胃があり肝臓があることを知っています。どんな権力者であろうと、彼らは「人間」でしかないのです。

 

ところで、このような考え方が生まれたのはいつからでしょうか? フーコーは、人間という概念が生まれたのは18世紀だとしています。

 

それまでは、「人間」はなかった。王族がいて、武士がいて、商人がいて、農民や坊主がいたでしょうが、人間は存在しませんでした。

 

これは奇妙に感じるかもしれませんが、現代でも簡単な例があげられます。あなたは母親を「お母さん」と呼びますが、母親を「人間」と呼ぶことについてどう感じますか? かなりの違和感があるはずです。

 

儒教文化では父親を大事にしますが、古い時代に「父親だって俺と同じ人間だ。偉くもなんともない」なんて言ったら頭をパコンと叩かれたでしょう。

 

考えてみると、フーコーの言う「18世紀」はおもしろい時代です。18世紀に起きたのは南北戦争フランス革命ですが、階級的・人種的な区別が否定されて、「すべては同じ人間なのだ」という価値観が欧米で広がった時代かもしれません。

 

日本はその「人間観」に対抗していたというべきでしょう。天皇は「人間」ではなく「神」としていたのが戦前の日本です。天皇が神なのであれば、それに近い人、宮内庁や高級官僚、政治家や軍人といった人々も「神」か、それに近い人になります。

 

そういえば、昔の2chではアイドルオタクが「○○(アイドルの名前)はうんこしない」 と言っていましたが、崇拝とはこういった形のものなのです。つまり衆人と聖人との生物学的同等性を否定することなのです。

 

人はみな違う

私は何度も書いてますが、人間は三種類にわけられると思っています。

  • 支配する人
  • 支配される人
  • 支配も被支配もされない人

これはそのまま、ヒンドゥー教の「カースト」を追認することになります。「支配する人」はクシャトリア、「支配される人」はシュードラ、「支配も被支配もされない人」はバラモンです(あるいは、アチュート?)。

 

私はカースト制の問題を認めていますが、「人はみな平等」という価値観よりは好ましいものと思っています。

 

人は平等ではありません。「同じ人間」 ではありません。社会は、「異なる性格の人間」「異なる役割をもつ人間」によって成り立っています。「均質的な人間」という考えは、捨て去るべき迷妄です。