齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

なぜ親たちはモンスター化したか

最近忙しいわたくしは、今日も所用があってバイクを走らせていたのだが、そのあいだラジコで放送大学を聞いていた。

 

放送大学ってすごくダウナーというか、私は長距離運転するときは必ず放送大学を流すようにしている。音楽はいずれ飽きる。耳ざわりになる。

 

しかし放送大学はすーっと耳に入ってくるし、勉強になる。偉いセンセー方が噛んだり、カタブツのセンセーが慣れない冗談を言ってみたりするときにツッコミを入れてやるのが楽しい。

 

モンペの因果

さて放送大学では教育論をやっていた。

 

そこで最近の親たちがモンスター化したのはなぜか? ということを論じていた。たしかになぜモンペが増殖したのか、謎の現象だったし、私も興味があった。

 

そのセンセー(名前忘れた)は、モンペが増えたのは、若いときに受けた暴力のせいだという。今の親たちの若い頃は、校内暴力の嵐が吹き荒れており、また体罰も当たり前だった。

 

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私の「体罰」のイメージ 「AKIRA」より

 

人は暴力が当たり前の状況では、もはや怒ることも助けを求めることもしなくなってしまう。しかし怒りは蓄積する。親たちが子供の頃に抑圧してきた暴力への憎悪が、自分の子どもが学校へ通うようになったとき、一種のフラッシュバックとして噴出する。その漠然とした憎悪や不信感、嫌悪感が、学校や教師に向けられるのだという……。

 

センセーは、「だから、今の時代にはだれも悪い人はいないんです。よく親ばかりが問題視されるけど、親は悪くない。でも、教師が悪いわけでもない。過去の悪がそこで再生産されている。」

 

そうなのか! と目からウロコだった。まあそのセンセーも仮説だと言っていて、たしかに証明は難しいだろうけど。すげーって思った。こういうのがほんとうの学問だよな。アクチュアルで、革新的で、問題志向的。

 

悪は蓄積する

暴力はいけない。と教師たちは口では言うが、私も高校時代何度も教師の暴力を受けた(ていへんこーだったので)。まあボコスカ殴られたもんだった。そのたびに私は男のくせにマジ泣きした。あのときの悔しい気持ちは忘れられん。そうでなくても学校にいることは心底苦痛だった。学校で私はたいへん苦しみぬいた。

 

私は結局、いろいろ哲学書や教育論*1を読んで、「学校はサイテーなところだ」「余計なことばかりしてくれるところだ」と結論付けることができた。学校というところは、軍隊や刑務所と変わらないということを知った(特に日本の学校はそう)。

 

でも、大半のひとは「学校は良いところ」と信じている。たとえば学校のない貧しい地域に学校を建てればだれもが賞賛してくれる(ところで、貧しい国の子どもたちが一生懸命勉強するのは、それが金持ちになれる唯一の道だからだ)。

 

学校に対する信仰は、あまり教育のない母親たちにとっては特に深いものだと思う。彼女たちは、学校に対する憎悪を深層心理に抱いている。それは表面化せず、発散されることがない。学校に対する漠然とした憎悪が教師というひとつの表象に憎悪が向かってしまう。

 

ほんとうのところ、モンペは特定の教師や学校にではなく、学校というシステムそれ自体を問いたいのではないかと私は考える。それがモンペの急増の理由なのかなあと。

  

まああてずっぽうだ。ともあれ、私は放送を聞きながら、やるせないというか、因果を知るというか、悲しい気持ちになった。なんで人はもっと楽しく自由に生きられないかな~と、冷たい風に凍えながら考えたのだった。

 

 

 

*1:例えばメキシコの教育学者、イバン・イリイチはこう言っている。

 

「学校は、儀礼ゲームをプレイできない者、プレイしようとしない者は世界の悪であるという責めを競争者におしつけ、そうした国際的ゲームに儀礼的競争を導くのである。学校は、累進的に消費をするという聖なる競争に新参者を導く加入儀礼であり、アカデミックな司祭(専門教師のこと――訳者)が忠実な者と特権・権力の神々との間の対立を調停する和解の儀礼であり、学校のドロップアウト者を未発達(「低開発」の意味をもかけている――訳者)なスケープゴートとして烙印をおし、生贄にささげる贖罪の儀礼である。」(山本哲士「学校・医療・交通の神話」より引用)