齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

神経症と資本主義

神経症と資本主義」について調べている。

 

これ、突飛な組み合わせかもしれないが、私にとっては極めて重要である。

 

 

神経症者の症状は「不安」や「恐怖」からくる。「○○恐怖症」などという症状は神経症の一種とされている。例えば、死恐怖症や先端恐怖症などがそれである。

 

これらの症状は、実は「死」や「先端」それ自体を恐れているのではない、と現代では考えられている。神経症者は漠然とした、何に由来するのかわからない不安に苦しめられている。それらがひとつの対象に形象化、象徴化しただけであると考えられている。

 

なぜ神経症者は不安にかられるのだろうか。

そして神経症者の不安とはなんだろうか。 

 

このことを考える前に、まず「不安」はだれにも共通していることを思い起こそう。 人は大学受験の前に不安になるし、仕事でミスをしていないか不安になる。それらは「説明可能」であるがゆえに「正常」であるとみなされる。因果関係が明白なのだ。

 

それに対し、神経症者の不安は明白ではない。死恐怖症者は自分が何を恐れているのかわからない。彼は「死ぬのが怖い」というだろうが、ほんとうの不安は死にあるのではない(そもそも死は「巨大な空洞」であり、対象化できるものではない)。ただ彼は、「不安」を理解可能にしようと、つまり因果関係を築こうと努力しているのである。

 

神経症者の不安は、漠然としていてわかりにくい。心理学や精神医学では解けない問題である。なぜというに、「不安」は本人の内面から起こるのではなく、外部からもたらされるのである。したがって、患者の内面を「解剖学的に」(フロイトが好んだように!)精査しても、そこに答えはないのである。

 

神経症者の不安は、外部から与えられる。 

ではそれはなんなのか。

 

もう長くなってだれも読まないだろうから、ちゃちゃっと結論を言おう。いや、もうだれも読まなくてもよいのだが。

 

外部とは、資本主義社会そのものである。資本主義は「適応」することを求める。「適応adaptation」はウィリアム・ジェームズが1890年、ダーウィンからとった言葉である。生物学の用語が心理学の用語となった。資本主義社会の「適応」の意味はふたつ。「労働意欲」と「遵法精神」である。

 

神経症者は「適応」できないことに不安を抱いている。彼は資本主義社会に適応できない。なぜというに、彼は生まれつき労働意欲と遵法精神を持っていないからである。しかし社会はそれらを徹底して神経症者に叩き込む。教育、メディア、家庭を通じて。彼はそうして外部から与えられた規範と、本性である自己との間で引き裂かれる。結果として自己が自己と殺し合う。そこに不安が生じる。

 

彼の不安は、その「齟齬」にあるのだ。

 

補遺

神経症者が労働意欲や遵法精神を持たなくとも、それは病的でもなんでもない。わかりやすい例は資本主義以前のヨーロッパにあった「ギルド」や「修道院」である。そこでは王政下の市民とは異なる秩序があり法律があった。概ね神経症者は、ギルドや修道院に親和的であると思う。絶対的な善や真理を求めること、高度な技術を追い求め、完全な生産物を追求することは、神経症者には好ましく思える。しかし絶対王政下、近代化(とプロテスタント化)が進むにつれこれらの団体は破壊された。世界は「王と民」だけにならなければならなかった。そして資本主義社会が拡大されるにつれ、王さえ消えて「民」だけになった。本来ならギルドや修道院といったマージナルな領域に生きたはずの神経症者が、無理やり均質的な国民のひとり、労働し消費する市民として位置づけられている。そこに無理があることは明白だ。

 

この変化はヨーロッパだけではなく、日本でも同様である。国家権力の届かない領域で、自助的に、独自の習慣をもつマージナルな集団が存在した。サンカがそうだろうし、『無縁・公界・楽』(網野善彦)といったアウトサイダーもそうではないか。

 

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サンカの人々

 

近代国家とは、これら辺縁の民を、徹底して弱体化し、同化し、吸収しようとする傾向がある。近代以降の日本では琉球民族アイヌ民族にも見られることである。

 

もう終わりにしてしまおう。ほんとうの結論。

 

だから、神経症者はアナーキストになればよいのではないか、と言いたかったのだ。神経症者の治療となるのはBZDでもSSRIでもない。アナーキズムである。生まれつきのアナーキスト神経症者である、と私は考えている。