齟齬

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日本人は集団主義的ではない―国民性という幻想

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『日本人は集団主義的』という通説は誤り | 東京大学

東大の高野陽太郎教授がこんな発表をしている。

 

 

日本人が個人主義的?

アメリカ人と同じくらい?

 

半年前にも同じ報告を調べていたが、その意味がわからなかった。

が、最近やっとわかってきた。

  

報告の趣旨をまとめる。

 

  • 主語が省略される日本語は、むしろ個人主義の現れである。
  • いじめは日本人の集団主義の現れとされてきたが、アメリカでも同じ程度存在する。
  • 日本型経営は「家族経営」の特徴があるとされるが、実質的にはアメリカの経営手法と大きな差異はない
  • 日本人は個人主義的だ、とする文献は集団主義的とするものと同程度存在する。確証バイアスによる誤認がある。
  • 過去の日本人は生徒が学校に対立して紛擾を起こすなど、個人主義的なふるまいが多い。
  • 日本人集団主義説はアメリカ学会に起源があり、その多くはオリエンタリズムによるものである。
  • 日本人の集団主義論のルーツは、第二次大戦中の調査結果である「菊と刀」のような著作だが、劣勢の軍隊であれば集団性は強固となるのが自然であり、民族性とは繋がらない。
  • 文化的なステレオタイプが、他国民を異質なるものと描き出そうとする傾向がある 

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近代国家とはなにか

近代国家とは、単一の国民性を要求するものである。日本であれば、「和を尊ぶ」国民性。アメリカであれば、「自由を愛する」国民性。

 

でも、これらの国民性はでっちあげである。 

人種的な差はたしかにあるだろう。日本人は身長が低い。ガーナ人は足が速い。

でも、心はそんなに変わらないはずなんだよ。

 

近代国家はほとんど似通っている。どんな国でも学校があり、病院があり、警察、マスコミがある。ひとびとは自動車を走らせ、ジーンズを履き、ハンバーガーを食べる。そして大半が民主主義で、資本主義。国によって違う点を探す方が難しい。

近代以前の国家間の断絶(たとえばプロイセン江戸幕府)に比べると、「ほんとうに違う国なの?」というくらい似通っている。違うのは言語、民族くらいだ。

だから、「人の心」が国によってそうは変わらない。

 

しかしでっちあげなければならない。

 

なぜなら、「固有の文化、固有の国民」が存在しなければ国家は成立しないから。「日本人の和の心」とか、「日本固有の文化」というものは、私たちが先祖たちから連綿と受け継いできたものではない。近代化にあたって、国家が必要から生みだしたものだ。

アメリカも同様だ。イギリスの支配から独立した、南北戦争によって奴隷制が解放された。となれば、「アメリカ人は自由を愛するということでいこう」となるわけである。実際には独立も奴隷解放も「経済的必然」だったのだが、そこは無視して、「自由」というきれいな言葉をスローガンにした。国民のアイデンティティがそこで生み出されるわけだ。おもしろいもので、イギリス社会から追放された貧乏人や軽犯罪人でしかなかったアメリカ入植者が、そこで「自由な信仰を求めてやってきた中流ピューリタン」へとすり替わった。

ところで日本は欧米に比べて遅く近代化した。「国民性」を急造する必要があった。「アメリカさんは自由路線、フランスは平等とか友愛路線だけどどうすっぺ?」となった。

日本はそこで、「和にしようぜ!」となった。というのも、欧米とはひと味違う感じで国民がまとまりやすいし、急激な近代化で内政が極めて不安定だったから、国民をおとなしくさせる必要があった。また、皇国史を国民に教えていくうえで、「十七条の憲法」が登場するのだが、そこでは「和」がもっともらしく登場するわけだ。

そこで西暦六百年頃(実際には皇紀がつかわれていたが)から和を大事にしてきた日本人! というイメージができあがる。実際その頃の日本人は「和を尊ぶ」なんてことはなかったわけだけど、ともかく後付で教え込んでしまう。教育、新聞などを通じて。

そうすっと、内面化された規範が日本人の行動原理を支配する。「俺は日本人だから声を荒げるべきではない」「自己主張すべきではない」となってくる。

 アメリカ人も同様で、「俺は自由を何よりも愛する」と思っている。この傾向は、「そこまで言うか?」「そこまで我を通すか?」といったデモやディベートや訴訟によく現れている、ように思う。 

 

こうしてできあがった「国民性」は、他国との比較によってしか成りたたない。アメリカと比べて日本は……日本と比べてアメリカは……といった具合だ。

しかしアメリカ人の「国民性」も、日本人の「国民性」も、実際的なものではなく、一種の幻想である。戦後やバブル期の「日本人論」ブームが日米で起きたが、すべて概念をこねくり回しているだけで、そのほとんどが実証的なものではない。アメリカ人の幻想と日本人の幻想を比較してどうこう言っている滑稽な情況でしかなかったのである。

その幻想が、上の東大の研究結果で破られたということである。

 

日本人は、和を尊ぶのではなく尊ばされてる。

日本人は、尊ばされてる。変な日本語だ。タットバサレテル。

しかし現実にそうだ。

 

私たちは生まれつき「集団主義」なのではない。第一にそれは外から集団主義であれと植えつけられている。教育やメディアによるマインド・コントロールである。日本人は自発的に行動を規制することを学習する。

第二に、集団主義的空間のなかでは集団主義的にふるまうしかない。「出る杭は打たれる」ことは損である。だから、功利的に「集団主義的態度」をとっている。

 

集団主義を是とする環境では、いくら個人主義的な人であっても集団主義的態度をとらざるをえない。実際には個人主義者の日本人の集まりであるグループが、集団主義的空間を醸成するという奇妙な情況が起きることもある。そういった条件をいったん廃してしまえば、個人主義者は個人主義者に戻る。それが心理実験の結果に現れている。

例えば、個人主義的なアメリカ人であっても日本企業に入れば、次第に自己主張をやめてサービス残業をするようになるだろう(会社に居づらくなるから)。しかしそれを指して、「珍しい。彼はアメリカ人にしては集団主義的だな」などと言えるだろうか?

 

日本人は集団主義ではない

まとめる。

日本人は集団主義ではない。

 

近代国家において「国民性」などほとんど存在し得ない。

しかしそれを「つくり出す」必要がある。

日本の場合は「和」などの集団主義である。

それは内発的なものではなく、上から押しつけられるものである。

だから「ソト」では集団主義的に振る舞う日本人も、

いったん「ウチ」に入れば個人主義的になる。

 

考えてみればわかるが。

 

学校の制服を着るのは私たちの趣味ではない。

就活のリクルートスーツを着るのは私たちの趣味ではない。

上司の言いなりになるのもサービス残業するのも私たちの趣味ではない。

私たちに押し付けられているだけである。

 

山岸「心でっかちな日本人」

Wikipediaを見ていたら、山岸俊男が以下の記述をしていた。

日本人が集団のなかで(己を犠牲にしてでも)遠慮し合って協調的に行動するのは、喜んで・好んで・進んで・自発的に・前向きに"集団の利益を望んでいるから"ではなく「集団の利益に反するように行動するのを妨げる社会のしくみ、相互監視と相互規制のしくみが存在しているから」、「圧力やしがらみ、あるいは社会のしくみのせい」と述べているようである。(集団主義 - Wikipedia

私はこれに全面同意。

「心でっかちな日本人」、読んだのだけど忘れていた^^; また読み直すか。

日本人論の何が問題か 

日本人論の何が問題なのか詳しく知りたい人は、コーネル大学人文学部教授の酒井直樹先生の本を読みましょう。

私もこれを読んで東大研究の意義がわかった。

均質な社会編制は、近代社会の基本原理である(Gellner, op. cit.; Calhoun, op. cit.)。現代の日本国が比較において均質な社会文化編制を達成してしまっているということは、その国民性あるいは民族文化の伝統によるのではない。そうした文化論的説明は、日本の近代化の過程での均質化を達成するために用いられる種々の政治的操作のひとつであって、そこでは、原因と結果が倒錯してとらえられているのである。いわゆる単一民族論が問題なのは、事実として、日本在住の他民族を無視しているからというよりも、むしろ、単一民族という仮設が日本社会の均質性を説明し、正当化する原則となってしまっているからであろう。いかにして民族の同一性が構想されるようになり、同一性の主張がどのような排除の機制を必要とするかについての問題意識が、日本単一民族論をたてることによって、あらかじめ否認されてしまうからである。

 

 

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