齟齬

社会とマイノリティの「齟齬」を描く御厨鉄のブログです。

日本の子どもは宇宙一うるさい生き物である→元気イデオロギー

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Big, Loud, Screaming Blonde by Tom Everhart

 

日本の子どもはうるさい。

とてもうるさい。マジでうるさい。煩い。五月蝿い。 やかましい。喧しい。 騒騒しい。

 

 

 

図書館のような静かにする場所でも、子どもがギャンギャン喚いている。私はうるさい子どもが嫌いだ。なんとかすべきだと思う。

 

子どもがうるさいのは当たり前だ」と言う人がいるだろう。言いたいことはわかる。私だって泣きだす乳飲み子を黙らせろというような鬼ではない。というかそれは全然気にならない。

赤子ではなく、3~6歳くらいの子どもがうるさいのである。

 

考えてみると、このようにうるさい子どもに悩まされるのは、日本だけではないだろうか。日本以外では、かようにうるさい子どもを見かけたことがない。貧しい国からまあまあ豊かな国まで旅行したことがあるが、子どもはみな静かだった。

 

それはそうだろう。人間には知性がある。しつけのなっていない犬よりもうるさくなることは稀である。人間の声は犬の鳴き声より耳障りだから一層たちが悪い。

 

「ママーーーーー!」だの
「うわあああああああん!」だの
歌い出すガキ
泣き叫ぶ奴暴れだす奴
普通の会話でさえ大声で「ママアボクネエ」だの
挙げ句の果てはキイイイイイイイと高周波音で聴覚攻撃してくる奴。

 

ああああうるせえええええええと叫んで助走つけて投げ飛ばしてやりたい。やったぜK点越え糞ガキ投げ選手権のトップランカーだ!

 

なぜなのか。なぜ日本の子どもはこんなにうるさい生き物なのか!

 

元気イデオロギーの支配する社会

それはおもったよりも、社会の深いところに根ざしているのかもしれない。

 

我々の日本社会では、たとえ元気があろうとなかろうと、元気いっぱいであることを第一とするイキフン(雰囲気)がある。私はこれを元気イデオロギーと読んでいる。

幼稚園や保育園のお歌の時間を考えてみよ。児童はどのように歌うか。美しく、楽しく歌うのではない。

通常、絶叫である。音階もハーモニーもリズムも関係ない。むろん私は幼児にそんなことは求めていない。しかしただただ気が狂ったような絶叫をさせるのはどうなのか。

耳をつんざくようにギャンギャン喚くほど、先生が「よくできました」と誉めるようにできている。どのように芸術的で感動的な歌唱だろうと、静かに歌えば先生は顔をしかめる。

 

「もっと元気よく歌いましょう!」

 

挨拶でも同様である。

子どもが落ちついた口調で「先生、こんにちは。いい天気ですね。ご機嫌いかがですか?」と話しかけることは許されない。幼稚園の先生はそういう子どもを気味悪がる。

一般的に、幼稚園の先生は「児童」を自分と同じような「対等な人間」であってほしくないと思っているようだ。そういう子どもは、成熟しているのではなく、むしろ反抗的であると受け止められる。

子どもは精一杯、声帯がつぶれんばかりの声で「こにちはああああああ!!!!!!」と叫ばなければいけないと先生は考えるし、実際にそうのように教育される。

子どもが悪いのではない。社会システムが異常なのである。

 


子は大人を見て育つ

大人社会においても幼稚園と同じようなことが起きている。

軍人は具合が悪くても「気をつけ」をしていなければならない。軍歌を声一杯歌わなくてはならない。調子が乗らなくても敵陣に突撃しなければならない。

 

こういった軍隊的規範が、日本社会全体に広がっている。

就活生は大学で得た知性よりも「覇気・元気」が重視される。これは一流企業でも同じである。十分に教育された知的エリートよりも、元気だけが取り柄の体育会系が好まれる。

会社員は体調不良が許されず、つねに元気でなければならない。「風邪を引いたから休みます」は許されない。

コンビニ店員でさえ元気よく叫ぶことが求められる。壊れたテープレコーダーのように「しゃっせーしゃっせーありやとやんしたーしゃっせーしゃっせーありやとやんしたー あんとーーーーーーす」を繰りかえす。

映画やアニメも悪い。日本のフィクションは、とにかく叫ぶ、叫ぶ。うおおおおお、だの、とりゃああああ、きゃああああだの、叫ぶ(AVでもそうだ!)。子どもはそれを真似する。

 一日12時間働こうと、低賃金だろうと、身体が弱かろうと、仕事がつまらなかろうと、つねに「元気よく」いなければいけない。それが日本の社会人である。

 

日本の企業文化はサムライ文化だ……と言えばかっこいいが、そんなのは嘘っぱちだ。元気イデオロギーの起源は富国強兵政策であるように思われる。兵隊さんは頑丈で元気が良いことが何よりも求められるからである。

 「元気」を国是とする風土が子どもの絶叫を生んでいる。我々はみな、子どもは元気でさえあればよいと思っている。頭の中をからっぽにして叫んだり走り回るのが健康だと勝手に考えている。

ふざけるなと言いたい。そんなのはただの痴愚である。人間である以上、幼くても知性はある。


子どもにとって親がすべてである

子どもは何も、好きだから叫んでいるのではない。彼らは小さな弱い身体で生き残るために必死なのである。

子どもは親の言うことを固守する。何しろ大人ときたら通常身長は倍、体重三倍の怪物である。勝ち目がない。しかも憲法自然権なんて知らない子どもにとって、食事や居住の権利など生殺与奪が親に完全に掌握されていると考えるだろう。

すなわち、「元気」でなければ見捨てられるかもしれない、という恐怖が彼らを「元気」に追い込んでいる。

勉強ができなければ捨てられる、愛嬌がなければ捨てられる。そういう恐怖によって偽りの自己を成育させた幼少経験を持つ人は少なくないだろう。友達が少ないことを気に病んでおもしろい奴のふりをしたり、球技ができないことに絶望したのではないか?


叫ぶ子どもは同じように「元気でなければならない」と神経症的に固執している。それは楽しいからそうしているのではない。渾身の演技であり、命をかけた叫びである。

 

母親はなぜ絶叫する子どもを注意しないのか。

周囲に迷惑をかけている子どもを母親が注意しない。その理由は、「元気イデオロギー」によって無意識が支配されているからである。

「なぜ公共の場で絶叫させてはいけないの?」

というのが彼女たちの意見である。

なぜなら、「元気な子どもはいけないわけ?」というわけだ。

「図書館で静かに読書する子どもは悪であり、図書館で絶叫する子どもは正しい」

たしかにそうだ。学校の先生も、企業の雇い主も、元気であることを求めてくる。どうして親だけが静かにさせなければいけないのか。

ゆえに、悪びれない。注意しない。「子どもがうるさいのは当たり前でしょ?」と彼女は言う。一見不可解な彼女たちの行為は、ある種の鋭い皮膚感覚の結果である。しかしそれは日本では当たり前だが、人間として自然ではない。

 彼女たちの発言は理解できるし、彼女たちが悪いのではない。それは国家的なイデオロギーの代弁でしかない。子どもの声を我慢しろ、とは国家的要請である。国家的要請の前に個人の健康や権利などは鼻くそ程度の力しかない。

 

結局のところ、日本という国は、国民に元気だけはいっぱいな痴愚になって欲しいのである。すなわち、熱心に勤労し、ときに屈強な戦士となるが、政治的には無力な大衆である。

 

元気イデオロギーを捨てよ

元気であるとは喚いたりはしゃいだり騒ぐことを意味するのではない。静かに絵本を読む、静かに歌をうたう、静かに友達と遊ぶ、静かに挨拶する。これらのできる子どもは十分「元気」である。

 

かたや、サルのように奇声をあげる、公共の場で静かにできない子ども。これは「元気」というよりも、はるかに「狂気」的である。その病的な状態を、親が、教師が、あるいは企業や国家が「良い」と考える。ここに病根がある。

 

子どもを無理やり元気にするな。元気イデオロギーから解放せよ。静かなままの子どもを愛せよ。それが私からのメッセージだ。

 

 

 

本記事は6月に投稿し、11月の全記事削除に伴い消したが、

アクセスが多い記事のようだったので編集した上再度公開する。